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今日の豊島は夕方から雨。雨が降ると困る。でも恵みの雨。植物が育つだけではない。雨は雨という存在だけでいい。とくに島の雨ならなおさらだ。雨の音を聴こう。島にぶつかる音だ。建築物の屋根に雨が落下する音は構造上よく響く。石や土、そして池や海にも雨は降りそそぎ、それぞれの音を響かせる。今日、僕はビニールハウスの中で草ぬきをしながら雨音を聴いた。ビニールに落ちる雨音がハウスの中に反響した。僕はカリブ海の島国キューバのスコールを思い出した。陽気がビニールハウスの中で熱をもち、熱帯の記憶を呼び起こしたのかもしれない。日本の豊島とキューバのイスラ・デ・ピノス。島国のそのまた島。
水が水蒸気になって空高く上昇し雲になり、やがて雨として落下する。その水の旅を想像しよう。目に見える水から水蒸気という不可視の存在になり、重力に逆らって上昇する。再び姿をあらわし重力に従い落下する。何千メートルかの垂直方向の移動の間に、どれほどの水平距離の移動があるだろう。今日、島に落ちてきた雨のこの一滴は雲になる前、どこの海にいただろう。今目の前にある1リットルの水の1年前の所在を考えてみよう。その集合と離散の複雑さは想像を絶する。
植物は地中の根から水分とともに栄養を得る。人の体も約7割が水分だといわれている。途方もない距離を移動している水のつかの間の休憩地点が、ただひっそりと咲く花や名前も呼ばれることのない雑草であり、僕やあなたの体である。
雨は土砂を削り、時間をかけて石を砕く。水が地形をつくる。今ある地形をなぞり、地形にそって流れる。土地に従っているように見せて、土地を少しずつつくり変えていく。そう考えると雨はまるで島の人の言葉のようだ。島の人が島を語る。島のできごと、誰がどうした、そんなうわさ話。でも、その語りの受け渡し、言葉の流れが同時に島をつくっているからだ。
晴れの日は島の人の話を聴こう。豊島ではそれほど雨は降らない。話が好きな人はたくさんいる。嫌いな人もいると思うけど。雨が降ったら雨音を聴こう。島の気配が近づいてくる。
ブログを再開します。
正直いってもうこのブログを書くのを止めようかと思ったのですが、人からいろいろ言われて自分がやりたかったことに対してモチベーションが下がるのはバカバカしいし、まだ書きたい熱は保っているので再開します。
ただし、「藤島八十郎をつくる」プロジェクトはとりあえずお休みになると思います。プロジェクトの今後について知りたい人は藤浩志さんにお問い合わせください。何か動きが生まれて告知することができた場合、そのときこのブログが続いていればもちろんここでも発表します。
僕、管巻三十郎はこのブログで、(1)「藤島八十郎をつくる」活動でおこったできごと、(2)僕が豊島で生活している日常のあれこれ、の2種類の文章を書いていくつもりです。
(1)は時間がたってしまったし、ドキュメントというより回想という形になってしまいますが、たくさんの協力してくれた方がいるので、できるだけ文章にしたいと思っています。
(2)については、八十郎のブログとは別にしようかと悩みました。「藤島八十郎をつくる」は瀬戸内国際芸術祭2010に参加している藤浩志さんの作品としての活動で、僕もアシスタント兼プロジェクト・パートナーとして参加しましたが、瀬戸内国際芸術祭2010が終了した以上、今の僕の生活は芸術祭とは関係がないからです。しかし、八十郎の活動があったから今の豊島での僕の生活があるのも事実だし、本来なら会期中に記述するはずだった島の日常を八十郎の活動の延長として書きたい気持ちもあります(ただし、芸術祭にとって都合が悪かったらいつでも止めるので、実行委員会の人は問題があれば僕までご連絡ください)。僕の日常生活といいつつも、それは豊島のフィールドノーツになるでしょう。とりあえずは八十郎のブログの中で(2)の内容も書いていきます。
僕自身はアートに対する関心を失っているので、アートファンが喜ぶようなものは書けないでしょう。申し訳ないですが、そういう期待に応える資質は僕にはありません。でも「八十郎をつくる活動」に興味をもってくれた人がいたとして、そういう人が読んで何か考えてくれるようなものが書けたらいいと思っています。というわけで、あまり期待せずにときどき覗いてください。
豊島は石の島だ。もちろんそれは豊島を形容する数ある文言のひとつでしかない。しかし、現在人口約1000人の豊島にかつては3000人ほどの人が生活していた。そして、そのうち約1000人(つまり今の島の人口と同じくらいの人数)が石工の仕事をしていたという。豊島に初めて訪れたとき、港から乗った車の中でKさんがそう説明してくれた。なるほど、確かに豊島は石の島だ。一緒に来た藤さんは何度目かの来島だが、初めての僕はやはり心が躍った。島のいたるところに石の仕事がある。数日もすると、地蔵がやたらに多いことに気がつくのだが、なんといってもすぐに目についたのは石垣だ。山頂を中心とした円を描くように走る主道と、そこから枝のように伸びる路地のいずれにも、いたるところに石垣が見られる。
壇山を登れば、豊島も桜島と同じで島に山があるのではなく、山が島であることがわかる。上空から見た島の領域は山と水の水位の関係によって描かれる仮のアウトラインでしかない。島と海を隔てる線分は確かに存在するけれど、それはいつも揺らめいている。島は、島である前にまず山なのだ。
そして、それが石の山であることも深く納得する。大きな岩、石の塊としての島がある。人を超える大きさの岩を人が扱う大きさに変える。島を砕いて石にする。石は島のカケラだ。それを連ねて石垣を造る。島だったものが人の手によって砕かれカケラとなり、やはり人によって構成されて石垣として再び島の一部になる。
むき出しの岩、大きな石を見る。動物や植物とは決定的に異なる硬さと不動。石の島で土と水、植物、動物がそれぞれの時間を動き、島をしてきた。ヒトの活動もそれらの動きの連なりの延長にある。
ともかく豊島生活の初日から石はやたらに目についた。唐櫃の岡を案内してもらった後、島の南側の集落、甲生に移動した。甲生で芸術祭が借りた家で、豊島に何度も訪れて島をもっともよく学んだアーティストの一人、青木野枝さんに会った。それから藤さんや案内してくれたKさん、青木野枝さんたちは高松に移動してしまい、僕は一人でその家に泊まることになった。石の島での生活が始まった。
すぐ近くの海辺まで散歩すると水面に光が反射していた。石が積み上げて造られた堤防を波が洗っていた。
八十郎の留守中に芸術祭が始まった。留守番していた僕は、たくさんの人が「いい眺めですね」とつぶやくのを聞いた。実際、台所からだけではなく部屋の窓からの眺望も素晴らしい。八十郎の家から下る坂道のはるか向こうに海が見える。他の島や岡山も見える瀬戸内海らしい景色。
だが、そんな眺めのいい家は島に他にもある。例えば、八十郎の家をつくるのを手伝ってくれた藤崎盛清さんの家も、海側を眺めると驚くほど見晴らしがいい。そして、そのすぐ近くにある盛清さんの父親、盛一さんが建てた家も。
藤崎盛一さんは農民福音学校というキリスト教の精神を基盤とした農村の生活技術を学ぶ学校を運営していた。はじめは東京の世田谷で開校していたのだが、田園地帯だったのが住宅が増え始め徐々に郊外化していくのを見て、適切な場所を探して豊島に移動してきた。自宅が学校だった。一緒に寝泊りし、生活がまるごと学習の場であり時間だったようだ。
藤崎盛一さんが豊島で自宅を建てるときに選んだ場所は、豊島に台風が通ると一番風が強く当たる場所だった。集落の中心地からも離れているし、決して便利な場所ではなかった。島の人はあんな場所になぜ、と思ったことだろう。だが、眺めは最高だ。藤崎さんによると盛一さんは「台風なんか来たとしても年に2、3回でしょう。それを我慢すればいいんだから、毎日いい眺めを見れたほうがいい」と言っていたそうだ。毎日の生活を重ねていく上で何に価値をおくかで人がわかる。藤崎盛一さんは、家からの眺めと同じくらい素敵な人だったに違いない。その価値観を藤崎盛清さんも受け継いでいる。
八十郎みたいなおっちょこちょいなやつ以外にも、眺めがいいという理由で場所を選ぶ人はいたわけだ。
八十郎は眺めのいい場所が好きだった。だから、八十郎を訪ねるときも、どこに家があるのか知らなかったけれど、窓からの眺めが綺麗に違いないとは思っていた。
島だから海の近くを想像していた。ところが波止場で網を修繕していた初老の男に八十郎のことを訪ねると「ああ、あの変わった風来坊だな。あいつの家は岡。唐櫃の岡。でもあんまり家におらんらしいよ」と言っていた。丘の中腹に八十郎の家があるらしい。港からゆるやかな坂をそれなりの時間をかけて歩くと、田畑と家が並ぶ集落にたどり着く。その道端から見る海はすばらしい。視界が左右に広い。そうか、こんなところに家を見つけたのかと納得した。
路地をうろうろ訪ね歩くと、それほど時間もかからず集落の中心部からほんの少しだけ山側に八十郎の家を見つけることができた。八十郎の名前を呼んでも返事はない。不在のようだ。玄関を勝手に開けて中に入ると台所がある。靴を脱いで上がると天井が低いのに閉口した。だが、右側の流しのすぐ奥にある窓からは、遠くではあるがはっきりと美しい海が見えた。僕は納得した。天井が低いので、この景色を愉しむためにはずいぶんかがむ必要がある。だが、とにかく八十郎は眺めのいい場所に家を見つけたわけだ。