今日の豊島は夕方から雨。雨が降ると困る。でも恵みの雨。植物が育つだけではない。雨は雨という存在だけでいい。とくに島の雨ならなおさらだ。雨の音を聴こう。島にぶつかる音だ。建築物の屋根に雨が落下する音は構造上よく響く。石や土、そして池や海にも雨は降りそそぎ、それぞれの音を響かせる。今日、僕はビニールハウスの中で草ぬきをしながら雨音を聴いた。ビニールに落ちる雨音がハウスの中に反響した。僕はカリブ海の島国キューバのスコールを思い出した。陽気がビニールハウスの中で熱をもち、熱帯の記憶を呼び起こしたのかもしれない。日本の豊島とキューバのイスラ・デ・ピノス。島国のそのまた島。
水が水蒸気になって空高く上昇し雲になり、やがて雨として落下する。その水の旅を想像しよう。目に見える水から水蒸気という不可視の存在になり、重力に逆らって上昇する。再び姿をあらわし重力に従い落下する。何千メートルかの垂直方向の移動の間に、どれほどの水平距離の移動があるだろう。今日、島に落ちてきた雨のこの一滴は雲になる前、どこの海にいただろう。今目の前にある1リットルの水の1年前の所在を考えてみよう。その集合と離散の複雑さは想像を絶する。
植物は地中の根から水分とともに栄養を得る。人の体も約7割が水分だといわれている。途方もない距離を移動している水のつかの間の休憩地点が、ただひっそりと咲く花や名前も呼ばれることのない雑草であり、僕やあなたの体である。
雨は土砂を削り、時間をかけて石を砕く。水が地形をつくる。今ある地形をなぞり、地形にそって流れる。土地に従っているように見せて、土地を少しずつつくり変えていく。そう考えると雨はまるで島の人の言葉のようだ。島の人が島を語る。島のできごと、誰がどうした、そんなうわさ話。でも、その語りの受け渡し、言葉の流れが同時に島をつくっているからだ。
晴れの日は島の人の話を聴こう。豊島ではそれほど雨は降らない。話が好きな人はたくさんいる。嫌いな人もいると思うけど。雨が降ったら雨音を聴こう。島の気配が近づいてくる。
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ブログを再開します。
正直いってもうこのブログを書くのを止めようかと思ったのですが、人からいろいろ言われて自分がやりたかったことに対してモチベーションが下がるのはバカバカしいし、まだ書きたい熱は保っているので再開します。
ただし、「藤島八十郎をつくる」プロジェクトはとりあえずお休みになると思います。プロジェクトの今後について知りたい人は藤浩志さんにお問い合わせください。何か動きが生まれて告知することができた場合、そのときこのブログが続いていればもちろんここでも発表します。
僕、管巻三十郎はこのブログで、(1)「藤島八十郎をつくる」活動でおこったできごと、(2)僕が豊島で生活している日常のあれこれ、の2種類の文章を書いていくつもりです。
(1)は時間がたってしまったし、ドキュメントというより回想という形になってしまいますが、たくさんの協力してくれた方がいるので、できるだけ文章にしたいと思っています。
(2)については、八十郎のブログとは別にしようかと悩みました。「藤島八十郎をつくる」は瀬戸内国際芸術祭2010に参加している藤浩志さんの作品としての活動で、僕もアシスタント兼プロジェクト・パートナーとして参加しましたが、瀬戸内国際芸術祭2010が終了した以上、今の僕の生活は芸術祭とは関係がないからです。しかし、八十郎の活動があったから今の豊島での僕の生活があるのも事実だし、本来なら会期中に記述するはずだった島の日常を八十郎の活動の延長として書きたい気持ちもあります(ただし、芸術祭にとって都合が悪かったらいつでも止めるので、実行委員会の人は問題があれば僕までご連絡ください)。僕の日常生活といいつつも、それは豊島のフィールドノーツになるでしょう。とりあえずは八十郎のブログの中で(2)の内容も書いていきます。
僕自身はアートに対する関心を失っているので、アートファンが喜ぶようなものは書けないでしょう。申し訳ないですが、そういう期待に応える資質は僕にはありません。でも「八十郎をつくる活動」に興味をもってくれた人がいたとして、そういう人が読んで何か考えてくれるようなものが書けたらいいと思っています。というわけで、あまり期待せずにときどき覗いてください。
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豊島は石の島だ。もちろんそれは豊島を形容する数ある文言のひとつでしかない。しかし、現在人口約1000人の豊島にかつては3000人ほどの人が生活していた。そして、そのうち約1000人(つまり今の島の人口と同じくらいの人数)が石工の仕事をしていたという。豊島に初めて訪れたとき、港から乗った車の中でKさんがそう説明してくれた。なるほど、確かに豊島は石の島だ。一緒に来た藤さんは何度目かの来島だが、初めての僕はやはり心が躍った。島のいたるところに石の仕事がある。数日もすると、地蔵がやたらに多いことに気がつくのだが、なんといってもすぐに目についたのは石垣だ。山頂を中心とした円を描くように走る主道と、そこから枝のように伸びる路地のいずれにも、いたるところに石垣が見られる。
壇山を登れば、豊島も桜島と同じで島に山があるのではなく、山が島であることがわかる。上空から見た島の領域は山と水の水位の関係によって描かれる仮のアウトラインでしかない。島と海を隔てる線分は確かに存在するけれど、それはいつも揺らめいている。島は、島である前にまず山なのだ。
そして、それが石の山であることも深く納得する。大きな岩、石の塊としての島がある。人を超える大きさの岩を人が扱う大きさに変える。島を砕いて石にする。石は島のカケラだ。それを連ねて石垣を造る。島だったものが人の手によって砕かれカケラとなり、やはり人によって構成されて石垣として再び島の一部になる。
むき出しの岩、大きな石を見る。動物や植物とは決定的に異なる硬さと不動。石の島で土と水、植物、動物がそれぞれの時間を動き、島をしてきた。ヒトの活動もそれらの動きの連なりの延長にある。
ともかく豊島生活の初日から石はやたらに目についた。唐櫃の岡を案内してもらった後、島の南側の集落、甲生に移動した。甲生で芸術祭が借りた家で、豊島に何度も訪れて島をもっともよく学んだアーティストの一人、青木野枝さんに会った。それから藤さんや案内してくれたKさん、青木野枝さんたちは高松に移動してしまい、僕は一人でその家に泊まることになった。石の島での生活が始まった。
すぐ近くの海辺まで散歩すると水面に光が反射していた。石が積み上げて造られた堤防を波が洗っていた。
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八十郎の留守中に芸術祭が始まった。留守番していた僕は、たくさんの人が「いい眺めですね」とつぶやくのを聞いた。実際、台所からだけではなく部屋の窓からの眺望も素晴らしい。八十郎の家から下る坂道のはるか向こうに海が見える。他の島や岡山も見える瀬戸内海らしい景色。
だが、そんな眺めのいい家は島に他にもある。例えば、八十郎の家をつくるのを手伝ってくれた藤崎盛清さんの家も、海側を眺めると驚くほど見晴らしがいい。そして、そのすぐ近くにある盛清さんの父親、盛一さんが建てた家も。
藤崎盛一さんは農民福音学校というキリスト教の精神を基盤とした農村の生活技術を学ぶ学校を運営していた。はじめは東京の世田谷で開校していたのだが、田園地帯だったのが住宅が増え始め徐々に郊外化していくのを見て、適切な場所を探して豊島に移動してきた。自宅が学校だった。一緒に寝泊りし、生活がまるごと学習の場であり時間だったようだ。
藤崎盛一さんが豊島で自宅を建てるときに選んだ場所は、豊島に台風が通ると一番風が強く当たる場所だった。集落の中心地からも離れているし、決して便利な場所ではなかった。島の人はあんな場所になぜ、と思ったことだろう。だが、眺めは最高だ。藤崎さんによると盛一さんは「台風なんか来たとしても年に2、3回でしょう。それを我慢すればいいんだから、毎日いい眺めを見れたほうがいい」と言っていたそうだ。毎日の生活を重ねていく上で何に価値をおくかで人がわかる。藤崎盛一さんは、家からの眺めと同じくらい素敵な人だったに違いない。その価値観を藤崎盛清さんも受け継いでいる。
八十郎みたいなおっちょこちょいなやつ以外にも、眺めがいいという理由で場所を選ぶ人はいたわけだ。
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八十郎は眺めのいい場所が好きだった。だから、八十郎を訪ねるときも、どこに家があるのか知らなかったけれど、窓からの眺めが綺麗に違いないとは思っていた。
島だから海の近くを想像していた。ところが波止場で網を修繕していた初老の男に八十郎のことを訪ねると「ああ、あの変わった風来坊だな。あいつの家は岡。唐櫃の岡。でもあんまり家におらんらしいよ」と言っていた。丘の中腹に八十郎の家があるらしい。港からゆるやかな坂をそれなりの時間をかけて歩くと、田畑と家が並ぶ集落にたどり着く。その道端から見る海はすばらしい。視界が左右に広い。そうか、こんなところに家を見つけたのかと納得した。
路地をうろうろ訪ね歩くと、それほど時間もかからず集落の中心部からほんの少しだけ山側に八十郎の家を見つけることができた。八十郎の名前を呼んでも返事はない。不在のようだ。玄関を勝手に開けて中に入ると台所がある。靴を脱いで上がると天井が低いのに閉口した。だが、右側の流しのすぐ奥にある窓からは、遠くではあるがはっきりと美しい海が見えた。僕は納得した。天井が低いので、この景色を愉しむためにはずいぶんかがむ必要がある。だが、とにかく八十郎は眺めのいい場所に家を見つけたわけだ。
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島に空き家があった
主が不在の家に人は訪れない
人は家を訪ねるのではないから
人が家を訪れるのは、そこに住む人に会うためだから
その家に主がいなくなってから30年が経っていた
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人の不在が少しずつ家を家とは違うものに変えていこうとしていた
30年間の人の不在が家を少しずつ壊していった
川の流れが土を削り石を運ぶように、ゆっくりと
風が瓦を動かした
雨水が瓦と瓦の隙間から浸入し、床に落下した
水分をたくわえた畳は直線と緊張を失った
畳はそもそもの存在に、すなわちただの草に戻りたがっていた
垂直を保とうと役割を果たす柱と重厚な家具が、
畳に畳であるように促した
外壁の薄い波板は緩やかに酸化した
風が錆びた波板をところどころ吹き飛ばし、
土壁をむき出しにした
土壁も攻撃され、ただの土に帰ろうとしていた。
時間が家をそれぞれのマテリアルに帰そうとしていた

それでも家は誰かがそこに住んでいたことを記憶していた
埃がかぶった食器、黴臭い浴槽、ひしゃげた窓枠、たんすに詰め込まれた服
納屋には農具が積み重なっている
けれどもそこには誰も訪れなかった
なぜなら誰もいないのがわかっていたから

空き家に30年ぶりに人が住むことになった
家が30年ぶりに出会った人の名は藤島八十郎という変な名前だった
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父が1月初旬に他界した。
すでに昨夏から入院して、助かる見込みはないと知っていたから、それほど感傷的な気持ちにはならなかった。父親との関係は決して良好とはいえず、後悔することもあるが私事の領域を出ない話なのでここでは書かない。
しかし、瀬戸内国際芸術祭で僕が体験したことがなんだったのか、父親が死んだことによって、以前よりもはっきり見えてきたような気はする。結局、僕が瀬戸内国際芸術祭をたのしめなかったのは、僕の幼稚な振る舞いが自分で自分を動きにくくしたのだと思う。
藤さんには何度も「芸術祭のおかげで豊島に入れたのだから、芸術祭に感謝すべきだし芸術祭に問題があればそれを解決していく主体としてがんばるべきだ」と言われていた。それは、そのとおりでまったくの正論だ。でも、そうはできなかった。
瀬戸内国際芸術祭の始まる前に通っていた大学院でも僕は同じような振る舞いをしていた。僕の指導教官だった管啓次郎先生は本当に優れた人だったし、誰よりも僕のことを気にかけてくれていた。管先生のブログに次のような記述がある。
大学院に入ったのに「論文を書きたくない」というどうにも理解に苦しむことを平気で口にする者がいたが、それでは野球チームに入団しながら「試合に出たくない」というようなもの。まったくバカげている。

僕のことだ。たしかにバカげている。瀬戸内国際芸術祭でも同じように僕は「試合に出たくない」といってたわけだ。それは藤さんには理解に苦しむことだったと思う。
思い出すのは、藤さんが「芸術祭のことも、大学院のことも、お父さんのことも、全部同じ」と言ってたこと。僕がそれぞれに恩恵を受けているのに気がついてないし、感謝が足りないという指摘だった。その言葉を当時は肯定できなかったけれど、今は当たっていると思う。

今になって考えてみると実の父親のように僕のことを心配し気にかけてくれた人が何人かいて、管先生や藤さんもそうだった。年齢的には父親というよりも年の離れたお兄さんというくらいだが、ともかく彼らは僕のことをよく観察し、より可能性のある道を示そうとしてくれた。それは本当にありがたいことだと思う。
でも、結局のところ、僕の未来は僕が見つけないと意味がない。僕が管啓次郎や藤浩志を尊敬しおもしろいと思うのは、人生のところどころで、彼ら独特のユニークな選択をしているからだ。鮮烈にして特異な生き方だ。もちろんそういった人生の鮮やかなポイントだけではなく、その前後の独特な活動を継続する努力がすばらしいのだ。
だから、僕は管先生にどうしたら大学の先生になれるかということは教えてもらいたくなかった。だって、僕は大学の先生になりたいわけではないし、それは僕にとって継続できる道ではないから。藤さんにアート関係の仕事を薦めてもらいたくなかった。僕はそんな道を歩きたいと思っていない。
僕のことを気にかけてくれるのはわかっている。でも、率直に書くと、彼らに僕の人生の先回りをして僕が歩くべき道に標識を立ててもらいたいなんて思わない。僕が進むべき道をきれいに舗装してもらいたくない。僕が進む道は僕しか見つけられない。僕が見つけないと意味がない。
もちろん誰も歩いたことのない前人未到の地を行きたいなんて思っていない。僕がこれからすることのほとんどはすでに誰かがしているだろう。それで、いい。誰が歩いた道だろうとかまわない。だけど僕は僕の人生を全面的に新鮮に生きたい。
世界には無数の足跡がある。そのどれもが掛け値なしに尊い人の生きた証だ。なかでも管啓次郎や藤浩志の足跡は僕にとっては特別で、それがすなわち道標だった。
だから感謝が足りなかったのもそのとおりだ。管先生にも芸術祭にも藤さんにも。父親にももっと感謝すべきだった。

野球チームに入って「試合に出たくない」というのはたしかにバカげている。でも野球の試合は勝負である前にゲームだ。人が投げたボールをバットで打ち返すことに、すでに喜びがあるのだ。打撃の手ごたえに野球の秘密と動機がある。バットに当てられないようにボールを投げる者と、バットを構えボールを打撃し遠くに飛ばそうとする者。プロ野球選手になりたくて野球をやるやつもいるけど、ただおもしろいからやっているやつもいる。それでも真剣勝負の試合はできるし、いいゲームだって成立する。大リーガーになりたい人しか野球をしたらいけないとしたら、僕は野球をたのしめないだろう。
結局のところ、僕は大学の先生になるための論文は書きたくない。芸術祭のために島にいることもできない。島にいたいのは島と島の人が好きだからだし、それ以外の何の理由もない。

芸術祭には反対ではない。問題もあったけど、いいところもたくさんあった。だから芸術祭を賛成か反対かの二元論で語りたくない。「いろいろ問題はあったけどよかった」というような簡単な言葉で回収されたくもない。いいことも悪いことも、どんなできごともひとつひとつそれぞれが僕にとって大切な思い出だからだ。
北川フラムさんと話して不思議な感じがしたけど、僕は北川さんのことが好きになった。どうしてかはわからないけど。何か協力できることがあれば、したいと思った。
でも、それと僕の人生のこれからは別問題だし、僕が芸術祭との関係を前提に島に住むのは無理な話だ。もちろん北川さんも芸術祭もそんなことは要求してないんだけど。とにかく今後、芸術祭に何か僕が協力できることがあればしたいと思う。それはどうなるかわからないけど。ただ芸術祭を前提に島に住むことはできないというだけ。
僕は幼稚だと思う。だからといって無理して大人ぶってもしかたがない。もうアート関係の人で僕に関わろうという人はいないかもしれないけど、それはそれでいい。まったくいいことだ。

僕は父親のことを好きになれなかった。それは悲しいことだった。父親の価値観を受け入れることができなかった。父が僕に受け渡そうとした価値観を僕は拒否した。何も受けとらなかったわけではない。僕がほしいものだけを泥棒のように奪っていった。父親はただそれを見ていた。僕たちはあるときから親子ではなくなったようだった。友人でもないし他人でもない。なんだったのだろう。成立していた関係を僕が壊したのは確かなことだ。
父親が彼の人生で何をしたかったのか、僕には理解できなかった。僕が何をしたいのか父は理解できなかったし、そのことを悲しんでいたようだ。僕は父親に何かしてもらいたいなんて思っていなかった。ただ彼が生きたいように生きてほしかった。僕のために生きてほしくなかった。僕が父親のために生きることを拒否したからだ。
僕は管先生や藤さんのことが今でも好きだし、その理由は彼らがその人らしく生きているからだ。それが一番かっこいい。彼らの歩いている地点を歩いてみたいと思うことはある。たとえその場所にたどり着いたときには、彼らがはるか彼方に歩みを進んでいたとしても、それはそれでいい。

そんなことを考えていたら、藤さんが藤島八十郎の絵を描き始めたようだ。それは僕にとっては圧倒的にうれしいことだ。
僕もこれからどんどんテキストをアップしていく。さんざんお待たせしているので誰も信用しないだろうし、藤さんはテキストはもうあきらめているかもしれない。それは僕が悪いから仕方がない。書くということが僕にとって大切なのはわかっている。僕は試合に出たいのか、そうでないのかよくわからない。ただバットでボールを打つように書きたい。
というわけで「八十郎の絵本のためのテキスト」というカテゴリをつくって、これからはそっちを更新することに努力します。
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前回のブログを書いてから、たくさんの人たちにご心配をいただいております。
ひとまず藤島八十郎の家は撤去ということになりました。ご報告が遅れて申し訳ございません。
藤島八十郎をつくる活動に参加してくれた人たち、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。

北川フラム氏には、12月18日に今後のことを相談させていただきました。こちらからプランを出せば検討してくれるようにご配慮もいただきました。しかし、藤さんと相談して今回はプラン提出を見送り、八十郎の家は撤去するという選択をしました。一度リセットして、もっといい形で八十郎をつくる活動を展開する機会がきっとあると思うので、それまで様子をみたいと思います。
そんなわけで、12月下旬に八十郎の家をかたづけました。
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(写真はすべて農園主さん撮影です)
ちょっと寂しいですが、藤島八十郎の活動は今後もなんらかの形で継続できるような気がしています。それに絵本のためのエピソードもまだだし…。これは僕がのろのろしていただけなので、1月と2月で進めていきます。ネタはどんどんたまっているので大丈夫です。
八十郎の活動に参加、ご協力、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。
2010年もあとわずかですが、よいお年をお迎えください!
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ことの顛末は藤浩志さんのブログにあるとおりですが、あらためて説明しておくと、管巻三十郎(宇野澤)すなわち僕の瀬戸内国際芸術祭実行委員会に対する態度があまりにも悪いということで、北川フラムさんから藤さんがお叱りを受けました。
これは実際にその通りで、僕も反省するところが多いにあります。今さらですが、北川さんにお会いしてお詫びを申し上げたいと思います。
実行委員会のみなさんを不愉快な気持ちにさせてしまったことも想像に難くないです。ご迷惑をおかけしました。

この件は100%僕に非があります。僕が参加しない形で藤島八十郎をつくる活動が継続していけたら、それが望ましいことだと思います。もちろん僕が意見をどうこう言える立場ではありません。北川さんをはじめ実行委員会の判断がまず大事です。芸術祭のおかげで八十郎の活動も成立していたのに、その芸術祭に対して僕の態度はあまりに不誠実でした。

とくに芸術祭について反対の立場をとるつもりもないのですが、そう誤解されてしまった原因は僕の発言を含めた振る舞いにあるのですから自業自得です。
どんな派閥にも属せないし、属そうとしないのが僕です。芸術祭に参加している以上、芸術祭を推進していく立場なのですが、そこにいることは僕個人にとっては不自然なことで、まったく息苦しい経験でした。要するに社会的なルールを守れていないのだから、どれだけ非難されてもしかたがありません。

しつこいし、言い訳がましいですが、芸術祭反対派ではありません。
4月から豊島で生活し、たくさんの島の人にお世話になりました。島には芸術祭を応援してくれている人もいるし、無関心な人もいるし、あまりよろしく思っていない人もいます。豊島に訪れたばかりのころ、芸術祭への関心がどうあるかということ以上に、典型的な「島の人」というイメージを超えた多様なキャラクターが豊島にいることに僕は驚きました。芸術祭についてどんな意見をもっている人であろうと、その人が島でどのように生きてきたかを学んでいきたいというのが豊島と関わる僕のモチベーションになっていきました。
豊島の人の多くがかつては牛を飼っていました。ミルクの島と呼ばれていたこともあったそうですが、畜産業の構造の変化によって、酪農を豊島で行っても収益が上がらなくなり、今ではほとんどの家が牛を手放しています。
また豊島は石も有名で、かつては石工もたくさんいたようです。これも中国産の安い石が輸入されるようになって、石工さんも徐々に減少しているようです。
豊島で今生活している人たちは多くが、そうした社会構造の変化が理由で職業を変えた経験をしています。都市部に移住すれば、仕事も見つかりやすいはずですが、島に生きることを選択し、そのための生業をつくってきた人たちです。過去の仕事をあきらめ、彼らにとっての新しい生き方に身を投じた人たちです。挫折を心の底に沈めたまま、希望をもち、前向きに生きている島の人たちが僕は好きです。あきらめと希望、期待と不安。僕が豊島で行いたいのは、常に拮抗するふたつの気持ちを抱えた島の人の人生を肯定することです。そのことにはっきりと気がついたのは、つい最近のことで、芸術祭の会期が終了してからですから、まったく我ながら間抜けです(蒙を啓いてくれたのは友人のアーティストでした。ありがとう、ありがとう)。

だから芸術祭については反対ではないのですが、島の人を芸術祭に協力的な人とそうでない人に分けて見るような状況が僕には耐えられなかったのも事実です。誤解のないようにいっておくと、その状況とは、実行委員会が島の人をどう見ていたかということだけではなく、芸術祭にどういう態度をとっているかを島の人同士でもお互い観察しあう程、芸術祭が島をおおっていたということです。
しかし、だからといって僕の態度が正しかったと主張したいわけではありません。幼稚な振る舞いをして関係者のみなさんにご迷惑をおかけしたことを、申し訳なく思っています。

僕としても自分が参加している藤島八十郎をつくる活動の部分で芸術祭に貢献していきたいとは思っていました。結果的には、何かある度に幼児のごとく振る舞い、芸術祭に迷惑をかけてしまっていて、バカというしかありません。

北川フラムさんをはじめとする実行委員会のみなさまにはご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません。

藤浩志さんの期待も裏切るようなことになってしまったのは誠に残念です。我ながら情けないです。
芸術祭というフレームを前提にするのであれば、僕よりも適切な人材はたくさんいるはずなので、そういう人が豊島で藤さんと活動してくれることを願っています。

「藤島八十郎をつくる」活動にご協力いただいたみなさん、応援してくれたみなさん、本当にごめんなさい。
この件を反省し今後は、芸術祭期間中の八十郎の活動と豊島での滞在で得た知見を文章化することに専心したいと思います。どうか、よろしくお願い申し上げます。
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「セーター、ちくちく」の話がどうにも気になっていたら、なんと藤島八十郎をつくる藤浩志も「セーターはちくちくするから嫌い」と言い、あげくの果てには「僕、セーターなんて1枚ももっていないもん」と自慢しはじめた。
偶然かもしれない。でも藤崎さんと藤さんが、ちくちくするセーターを嫌いなのには何かあるような気がした。
藤さんの場合も、子どもが寒い格好をしていては可哀想と思った親が用意したセーターだったようだ。
藤崎家では羊毛から手づくりなので、これは今考えるととっても貴重なものだ。毛糸をつくる技術だって素人だったようだし、今のように洗練された着やすいセーターではなかったのも想像できる。その1枚のセーターは交換不可能で、盛清さんのためだけのものだった。
このエピソードに僕が惹かれるのは、親が子どもに手渡そうとしたものを、子どもが受け取れなかったということだ。親の価値観を共有できなかった欠落。そんな欠落は誰でもあるはずだと思う。先行世代の価値観を肯定できなかったということを、どう自分なりに引き受けて、新しい価値を創造し生きていくのか。それは芸術の分野が常に考え実践してきたことだ。
藤さんは「ちくちく」するセーターが嫌いで、「つるつる」した服ばかり着ている。でも、それが服ではなかったら「ちくちく」したものが好きだったかもしれない。豊島の石垣も僕には「ちくちく」しているように見える。この石垣がずっと残るのか、そうでないのかは僕にはわからない。
僕はセーターも着るし、つるつるした服も着る。でも、親の価値観を受け取れなかったことはいくらでもある。共有できたかもしれないのに共有できなかった価値観、自分が捨ててしまった何か、そんな欠落を大切な思い出として話す人が僕は好きなんだと思う。
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藤崎盛清さんの父、藤崎盛一さんは豊島で農民福音学校を運営していた。
農業の効率化が進み、単一作物の大量生産が奨励されていた時代に、牛や鶏などの家畜を飼い、様々な作物を育てて、土地の恵みをどのように利用するかを考え、実践していた。
学んでいた人たちの経緯も、ごく普通の高校生が進路として大学進学を選択するよう形とは違っていたようだ。家業が農家の若者が、これから自分たちがどのように生業と生活を改善していけるだろうかと模索するために農民福音学校の門を叩いていたようだ。共同生活をしながら、田畑で働き、講義を受講していたそのスタイルは、現代の視点から見ると、近代化によって分断された労働と学びをもう一度接続する試みといえるだろう。

農民福音学校の活動は興味深いが、ここでは長くは書かない。今回は別の話。
ともかく、そんな学校を運営していた藤崎盛一さんの息子、盛清さんに僕はめちゃくちゃお世話になった。藤崎盛清さんがいなかったら、藤島八十郎をつくる活動は全然別の形になっていたはずだ。
昔の藤崎家の暮らしぶりや農民福音学校のことを訊くのはたのしかった。盛清さんが幼いころ、農民福音学校では牛や鶏の他に羊も飼っていた。羊毛を刈り、脱脂し、毛糸を紡いで、手づくりのセーターをつくっていた。幼い盛清さんにも手づくりのセーターがあてがわれた。ところが、ごわごわしたセーターは着ると肌がちくちくして痛い。幼い盛清さんはセーターを着るのを嫌がり泣き騒ぎ、盛一さんに怒られた。もっとも盛清さん自身にこうしたできごとの記憶はない。それくらい幼いころのことだった。親や姉たちから聞いたそんなことがあったことを教えられたそうだ。それでもこの話には真実味がある。盛清さんは今でもセーターが嫌いで、セーターをもっていないのだ。
この「セーターちくちく」のエピソードは、僕の頭からずっと離れなかった。
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10月31日は瀬戸内国際芸術祭2010の最終日。八十郎の家も105日間の会期を終えることができました。
ツイッターにも書きましたが、最後のお客さんがとてもいい人たちでした。岡山在住で豊島に毎年夏のお祭りを手伝いに来ているそうです。豊島の外に住んでいて、八十郎の家よりも先に豊島を知って、何年も何度も豊島を訪れている豊島が好きな人が八十郎の家を気に入ってたのしんでくれたのは僕にとってもとてもうれしいことでした。
もちろん、それまで訪れてくれたすべてのお客さんに感謝です。混雑時には外でお待たせしてしまうことになったり、いろいろ至らぬ点もあったと思います。申し訳ございません。たくさんのお客さんにご来場いただき八十郎は幸せ者です。
そして、もうひとつ。芸術祭実行委員会の運営(いろいろ文句を言ってごめんなさい)、こえび隊のみなさんのご協力、島のみなさんの応援によって八十郎をつくる活動は成立しました。ありがとうございます。
藤さんはもちろんものすごく動いて豊島に来るたびに突貫工事をしていたけど、僕はほとんどなにもしてません。ごめんなさい。関わってくれたすべてのみなさん、本当にありがとうございました。

僕の力不足で、島の人や島に関心をもつ人と活動をつくるという当初のプロジェクトはほとんど実践できませんでしたが、なんだかわからないけどなにかできそうだという根拠のない手ごたえだけは感じることができました。
不思議なことに、そういう中途半端な状態にもかかわらずたくさんの来場者から賞賛の言葉をいただき、藤さんも僕もおどろいています。八十郎は何者なのか…、つくっている本人たちもますますわからなくなってきました。

会期中に僕の怠惰で報告できなかった「藤島八十郎をつくる」関連での出来事を今後このブログにアップしていきます。
トピックは…
雨漏り/掃除と分類/廃材/キッチンと調味料/テント/庭の草刈り/公堂の床磨き/遊具の錆落としとペンキ塗り/石垣/動物の群れ/子どもを待つライオンの像/豊島タワーと豊島スカイツリー/豊島の水と石/堀田さんの料理/幻の弓木パノラマ館/笹尾農園/ハーブ園/はるはるファーム/八十郎への手紙と手紙ワークショップ/立体農業研究助走/本のワークショップ/架空の人物/豊島タワーのスタンプ/いちご家の看板/壇山/廣田商店/ランプシェード/八十郎の庭/キケンギャラリー/島の子どもたち/豊島賛歌とアロハオエ/牛飼いだった人たち/etc.
こんな感じでしょうか。本当はもっともっと書かないといけないことがあるなぁ。そうそう、八十郎は絵本作家になりたいのでした。ここでのお話も絵本になるかも…。
いまだ何者かわからない八十郎の姿も、会期中の物語を書いていくうちにはっきりしてくるかもしれません。というわけで、結局またもやお待たせしてしまうわけです。ごめんなさい。

ちなみに藤島八十郎の家は11月19日から12月19日までの金・土・日曜日に公開するそうです。先日、会期中の状態からマイナーチェンジしました。宜しくお願いします。
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10月17日藤島八十郎の家で、「水のある場所」をキーワードに日本各地を訪ね歩き調査している社会学者の山田創平さんに、瀬戸内海と海洋文化について語ってもらいました。
山田さんの話はものすごくおもしろかったです。本当にすごい人でした。でも情報量が多すぎて僕には要約できません。ここでは、たくさんのトピックの中から特に気になったところを書いておきます。
・まず瀬戸内海についての基礎的な知識。平均水深約30メートルの非常に浅い海として知られている瀬戸内海ですが、最も深いところは454メートルもあるということ。そして21本の1級河川が注いでいます。こういった地理的な条件が瀬戸内海の複雑な潮の流れをつくりだし、豊かな生態系を築いてきたようです。
・そして海の人の暮らし。日本には海民と呼ばれた人がいました。海辺に暮らし、漁をして生計をたてていた人たちです。海民は殺生をするため、仏教的思想が広まってからの日本では賎民とされてきたそうです。
・海民は広範なネットワークをもっていました。その範囲は中国大陸や朝鮮半島、東南アジア、さらに南の方まで及んだと考えられています。
・もちろん瀬戸内海地域にも多くの海民が暮らしてきました。驚いたことに九州から瀬戸内海地域にかけて、海民には末子相続という制度があったそうです。近現代の日本の長子相続とは反対に末っ子が両親の財産を相続するというものです。長子相続は共同体を構成する人数を増やしたい場合に有効で、反対に末子相続は共同体の人数を減らしたい場合に機能するそうです。
・藤さんが山田さんを案内したスダジイの森についても話題に出ました。スダジイの森の奥にある権現神社。そのさらに背後にある大きな岩があります。この大きな岩は信仰の対象となる巨石でイワクラと呼ばれるものだろうということでした。
・海民は海だけを見ていたわけではありません。海民にとって島や山は自分たちの位置を測る重要なポイントでした。
・瀬戸内海の島は石が採れることで有名ですが、一方でそれらの石を大阪や京都に運ぶための船を操縦する技術にも長けていました。大阪で石を運んでいた三十石船を操縦していた人たちの多くは豊島や直島の出身だという文献資料もあるそうです。

他にもたくさんのお話をしていただきました。山田さんは文献を大量に深く読みつつ、実際に土地を歩き観察しています。フィールドワークと文献狩猟のバランスがとてもいい人でとても感心してしまいます。
僕が思ったのは、まず僕自身が日本のことをまったく知らないという情けない事実。一方で、山田さんが読んでいるような古い文献資料を僕は読むことさえできないだろうというのも想像できます。例えば200年前の文献を僕がどれだけ読むことができるかというと、かなり難しいでしょう。学がないといえばそれまでですが、現代に生きる我々と200年前の人たちに言語的なズレがあるのも確かなことです。200年前でも苦しいですが、6世紀とか7世紀の史料となれば外国語のようなものでしょう。日本の近代化の問題なのかもしれませんが、それはともかく日本で土地の歴史を学んでいく場合、山田さんのような人の翻訳的な仕事が重要になってくるのは間違いありません。ここで僕はあえて翻訳という言葉を使っています。ある言葉を受け取り、それを別の体系に置き換えていく。それは単純なシステム的作業のように思われるかもしれません。しかし、誰かが書いた意志を受け取り別の誰かに渡していくという作業には、創造の本質があるような気がします。創造という言葉はともかく、大量の情報を読み込み、比較検討し、関連づけていく「翻訳者」の視点が重要になってくるのは間違いないでしょう。
いずれにしても、山田さんにもっともっといろいろ教えてもらいたいと思いました。そういう機会を今後もつくっていきたいです。山田さん、どうもありがとうございました。
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9月28日に日比野克彦さんのプロジェクト瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸」のキックオフイベントが行われ、僕もヤジウマとして見てきた。
まず唐櫃公堂で二人の水中考古学者のお話。もちろん司会は日比野克彦さん。水中考古学とは考古学の一分野で、文字通り水中をフィールドとした考古学。吉崎伸さん(京都市埋蔵文化財研究所/水中考古学研究所)と野上建紀さん(有田町歴史民俗資料館/アジア水中考古学研究所)がそれぞれの研究活動を事例として、水中考古学という学問で行われている研究内容をわかりやすく説明してくれた。
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でも、僕にとっておもしろかったのは、アーティストの日比野さんがなぜ水中考古学に興味をもったのか。日比野さんの熱のある話し方がカッコイイ。夜空にうかぶ星は、とてつもなく遠くにあるけれど、どれだけ遠くても見えるから「ある」ことになっている。でも、水面の下は5メートルか10メートルの距離でも見えない。見えないから認識できない。何かあるかもしれないのに、ないことになってしまう。そして、水中にもぐり、まだ見てもいない何かを探す人たちがいる。水中考古学という学問に、絵を描くモチベーションと似た何かを日比野さんは感じたようだ。
僕は、洞窟探検に夢中になっている小山田徹さん思い出した。洞窟はある。でも、だれも入ったことがない洞窟は認識できない。どうなっているかもわからない。その洞窟に入り、少しずつ場所を把握して測量していく行為は、水中にもぐって歴史の記憶を探すのとどこか似ている。それは世界を認識する方法だ。そして人が絵を描くのは、世界の認識とその認識を誰かに受け渡していくことと関わってくる。
水中考古学の説明の後、豊島の漁師さんが海で引き上げたものを吉崎さんと野上さんが鑑定するという、鑑定団的企画が行われた。4点ある中で先生たちが興味を示したのは壷ではなく、陶製の地雷と高射砲の弾だった。戦争中に金属が不足したため陶器で地雷が作られたそうだ。爆発する陶器が作られていたのもおもしろいし、それが水中に沈んでいるのもスゴイ。

公堂のお話が終わってから昼食の時間をはさんで島キッチンでワークショップ。島キッチンの屋根を水面に見立てて、紙粘土で海の底に沈むものをイメージして紙粘土で作るというもの。一緒に行った橋村さんたちもたのしんでいた。

ワークショップの後は八十郎の家に移動してみんなでがやがやと話す予定だったのだが、ワークショップの終了が遅くなったので、そのままみんなで海辺にバーベキューをしに行くことに。ボルタンスキーの作品の近くの砂浜にみんなで移動。吉崎さんと野上さんはさっと地形を見渡すと、すたすたと歩き出してあっという間に海岸から陶器の破片を拾ってきた。16世紀(?)ぐらいのものだとか?先生たちは海に来ると、反射的に地形を観察して「船が遭難しやすい場所はここだ」と目星をつけるのが癖になっているようだ。うーむ、すごい。このあたり、アスリート的なアーティスト日比野さんも大いに興奮していて、なかなか刺激的な夜でだった。
途中から、和光大学の長尾洋子先生たちが合流。長尾先生は管啓次郎先生の友人。明治大学大学院で管先生と僕たち学生で実施した『WALKING 歩き、読み、考える展』の関連イベントで、和光大学のある鶴川駅から明大生田校舎まで一緒に歩いたのもなつかしい思い出。そういえば、小山田さんの洞窟測量ワークショップにも長尾先生は参加してくれて、とてもたのしんでいた。
しかも長尾先生と一緒に細川周平さんが来た!8月に八十郎の家で本のワークショップをしてくれた淺野卓夫さんがブラジルに3年ほど滞在していたのは以前にも書いたけど、細川さんは淺野さんの前にブラジルに滞在し、同じく日系人の生活や文化を調査研究した人。名著『シネマ屋ブラジルを行く-日系移民の郷愁とアイデンティティ』には、僕も大きな影響を受けている。キューバのフベントゥ島で管先生の本と細川さんの『シネマ屋-』がいつも頭の中に鳴り響いていた。
僕の中でいろんなものが結びついた一日だった。星、海の底、島、洞窟、地球の反対側の大陸で生きたニッポンの人の生活。結局、それは世界の断片でしかない。通常の意味でアートとよばれるものではない。でも、そのような世界の断片から想像する可能性を拡げることだけがアートの価値だといってもいい。日比野さんがしきりに言っていた、「人類ではじめて絵を描いた人がいるはずで…」という絵画の起源を想像することや、もっと個人的に今ここで絵を描きはじめる場合の動機とも重なってくる。人はなぜ絵を描くのか?そして、どこから来てどこへ行くのか?
でも、一番よかったのは海水で味つけをした肉を焼いている日比野さんの姿だったかも。みなさん、おつかれさまでした!
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藤島八十郎の家ですてきでたのしい催しを企画しています。
瀬戸内海と海洋文化について、社会学者の山田創平さんに語っていただきます。瀬戸内海独特の地勢、文化、歴史について想いをめぐらせてみましょう。
10月17日13時からです。ぜひお越しください。
詳細は下記の通りです。

「瀬戸内海と海洋文化について語る」

ゲスト:山田創平(社会学者・京都精華大学専任講師)
ホスト:管巻三十郎(比較文化研究・藤島八十郎をつくる担当)
    藤浩志(美術類実践・藤浩志企画制作室勤務)

日時:10月17日13:00~15:00
会場:藤島八十郎の家(瀬戸内国際芸術祭作品番号23番/香川県小豆郡土庄町豊島唐櫃1035-6)
参加料:無料(ただし、会場となる藤島八十郎の家への入場は瀬戸内国際芸術祭のパスポートもしくは個別鑑賞料300円が必要です。地域住民や藤島八十郎の関係者は入場料は必要ありません。)

「藤島八十郎の家」で新進気鋭の社会学者・山田創平さんに、瀬戸内海地域が育んだ独特の文化についてお話をしていただきます。
瀬戸内海は世界的視野から見ても恵まれた環境の多島海です。臨海地域や島には古くから人が住みつき、自然との共生が行われてきました。また交易の舞台としても重要な役割を果たしてきました。瀬戸内国際芸術祭の舞台となる瀬戸内海を、歴史的および地理的により大きなパースペクティブから考える機会にしたいと
思います。


■山田創平(やまだ・そうへい)プロフィール
京都精華大学人文学部専任講師。文学博士。
1974年群馬県生まれ。名古屋大学大学院国際言語文化研究科博士課程を修了後、厚生労働省所管の研究機関や民間のシンクタンクで研究員・リサーチフェローをつとめ、2009年より現職。専門は都市社会学、都市における感染症対策。また現在、厚生労働省科学特別研究事業研究班員、特定非営利活動法人関西エイズ対策協議会理事 、京都産業大学キャリア教育研究開発センター客員研究員を兼任。2008年に名古屋大学名誉修了者賞を受賞。

※「藤島八十郎の家」は、瀬戸内国際芸術祭2010の参加作家・藤浩志の作品『藤島八十郎をつくる』における架空の人物「藤島八十郎」の家です。「藤島八十郎」という人物は架空ですが、「藤島八十郎の家」は実在します。
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9月26日に、日比野克彦さんのプロジェクト瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸」のイベントがあります。会場は豊島の唐櫃地区の3箇所です。豊島唐櫃公堂で水中考古学のお話、島キッチンでワークショップの後、なんとなんと藤島八十郎の家で「豊島鼎談(ていだん)」があるそうです。
水中考古学とは、なにやらおもしろそうです。瀬戸内海は日本の各所を行き来する船が通った重要な海。瀬戸内海地域のことだけではなく、いろんな場所の歴史と関係してきそうです。いったいどんなお話を聞けるのかたのしみです。
それにしても、おっちょこちょいの八十郎の家でこんなたのしそうなイベントが行われるとは…。八十郎は幸せなやつです。
ぜひ、このイベントに足を運んでみてください!
詳細は下記の通りです。


■ 【瀬戸内】瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸」始動

9月26日(日) 瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸」が動き始めます!

ーーーー

海の底には、昔々の落し物が落ちている。

誰にも見つけてもらえなく、長い時間そのまま、ずーと落ちたまま。

海の中には記憶がある。

その記憶をそーと拾い上げてみたくなったんです。

それが海底探査船美術館プロジェクト!

長期計画プロジェクトとして、瀬戸内国際芸術祭にエントリーしてはいるが、

その実態はまだ誰も知らない。

しかしついに!9月26日にこのプロジェクトの長い旅が動き始めます。

慌てず騒がず、のんびりと、

海の底に流れている時間に合わせてはじめます。

日比野克彦

ーーーー

日程:9月26日(日)

会場:豊島 唐櫃集落(唐櫃公堂、島キッチン、藤島八十郎の家)

スケジュール:

11:00〜12:00 水中考古学のお話を聞こう(会場:唐櫃公堂)

お話:野上建紀さん、吉崎伸さん(水中考古学者) 司会;日比野克彦

12:30〜14:30 海底探査船美術館ワークショップ(会場:島キッチン)

15:00〜17:30 豊島鼎談(会場:藤島八十郎の家 ※「藤島八十郎の家」は藤浩志さんの作品です)
このあと、懇親会を予定しています。どなたでもご参加歓迎致します。
ただし、懇親会に参加をされる方は、豊島に宿泊するご用意を忘れずに。(船がなくなってしまうため)

会場が3箇所にわかれていますが、いずれも徒歩で2分程度のところにあります。

豊島の家浦港や唐櫃港に到着されたら、芸術祭会期中に島内を巡回しているバス(無料)に乗車し、

「千代田池」か「清水前」のバス停で降車してください。
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イラストレータの林一馬さんが藤島八十郎の家で手紙を書くワークショップを行います。
林さんは藤島八十郎をつくるのに協力してくれた一人です。八十郎の家のアトリエ壁面を見ると、ずらりと工具が並んでいます。その工具のアウトラインを壁面に描いてくれたのが林さんです。

今回は林さんが、藤島八十郎の家で来場者のみなさんも気軽に参加できるワークショップを企画してくれました。藤島八十郎の家に遊びに来て、家族・友人・知人などに手紙を書いてください。身近にいるけどふだんはなかなかいえないことや、久しく会ってない人など、誰に宛ててもいいのでたのしんでください。

藤島八十郎手紙ワークショップ
日時:9月23日24日 11:00~16:45(この時間内でしたらいつでも参加可能です)
会場:藤島八十郎の家(瀬戸内国際芸術祭作品番号23)


申し込みは不要です。ワークショップの参加は無料ですが、切手代が実費必要です。
芸術祭のパスポートをお持ちでない方は、個別鑑賞料金が300円必要になります。
詳細は以下をご覧ください。

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8月13日から15日の3日間、香川大学経済学部の授業が豊島で行われ、島民も参加できるということなので聴講してきた。3日間を通じて「協働」がテーマ。はじめの2日はフィールドや座学で学習し、最終日のワークショップでそれまでに得た知見を踏まえて、「協働」についての映像を制作・発表するという流れ。フィールドワークやワークショップが多くてかなり実践的。こういう授業を学部のうちに受けられるのはとてもいいこと。香川大学の学生は幸せだと思う。ゲスト講師として高橋直治先生(東京造形大学得任教授)らとともに
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知人の川部良太君の名前があってなんだかうれしい。
13日は、石井亨先生の案内で産廃の現場とこころの資料館に。4月に豊島に入ったけど実は初めてです。うーむ、やっぱりすごい。想像もつかない物量。そして事件の異様さ。運動の過酷さ。環境が破壊されただけではない。誤解と心無い誹謗中傷が豊島に人の心に深い傷を残したことを改めて思い知らされる。
その後、芸術祭の横尾忠則の作品を見てから、甲生地区の片山邸や壇山を経由して唐櫃地区の公堂に。
昼食後は石井先生の講義。「共同体と自治の変遷」(3限)と「アートで地域は元気になるのか」(4限)で、どちらもかなりおもしろかった。石井さんが豊島や産廃事件に詳しいのは当然だが、越後妻有や佐久島、日間賀島、神山町などアートプロジェクトの現場にも足を運び、地元の人に丁寧に取材していることには驚いた。神山町については、いつか行きたい場所から、絶対に行かなくてはならない場所に変わった。
夕方みんなでバーベキューを食べて自己紹介、そしてグループに分かれて一日を振り返るミーティング。かなりくたくたになった。
14日は石井先生が唐櫃の清水とその下の棚田を案内してくれる。その後、グループごとに分かれて島の住民にヒアリング。藤島八十郎の家で藤崎さんに取材するグループがあったので僕も同行。藤崎さんに豊島のことや芸術祭について学生たちがいろいろ聞いていた。藤崎さんらしい思慮深い話に学生たちも感銘を受けていた様子。
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午後は香川大学の原直行先生が「豊島のミカタ講座」と題して、実際に歩きながら豊島の見所を解説してくれた。とくに興味深かったのは、道にはタテの道とヨコの道があるという話。タテの道は上に上がる道、すなわち山に通じる道、あの世につながる道、信仰の道。ヨコの道は集落と集落を結ぶ、交易の道。藤島八十郎の家の近くにはタテの道とヨコの道が交差する地域の重要なポイントがあることも教えてもらった。
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歴史の知識があると地域を歩くのがおもしろくなる。豊島を理解する上で重要な石と水についても原先生は丁寧に解説してくれた。棚田を歩いているときも、コシヒカリとヒノヒカリの違いなど、農業について知っている人には基本的な情報だと思うけど、そういう植物の特性と土地のあり方の関係を見ていくのはやはりおもしろい。ちなみにコシヒカリは背が高くなるので台風の前に稲刈りをしないと倒れてしまうそう。だからコシヒカリの収穫は終了している。背が低くて比較的風に強いヒノヒカリの収穫はこれからだそうだ。
原先生はまだまだ引き出しがありそう。僕はすっかり原先生のファンになってしまった。今後もいろいろ教えていただきたいと強く思った。
公堂に戻って西成先生の景観学の授業。そして夕食の後、ディスカッション。
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この日は前日より島民も増えた。学生たちは、まだ明確な言葉にはなっていないけれどフィールドから何かを得ているようだ。島民と学生のディスカッションで、僕は島民側に。にわか島民なのでなんだか申し訳ない。島の人にも、学生にも。でも、そんな中途半端な立場がもっともおちつく妙な性格であることも確かなのだ。40数年ぶりに豊島に戻って生活を始めた人の「街にはなにもない」という言葉に深く共感。もちろん世の中の多くの人は反対に「東京にはなんでもある」と言う。でも、その「なんでも」の99.9%は商品だ。商品としての食べ物、商品としてのアート。
15日は映像ワークショップ。題して『いま・ここにある協働をみつける』。ワンカット無編集の映像で「協働」をテーマにした映像を制作し、夜に島の人も招いた公開の講評会が行われた。
僕は島キッチンを取材するグループに同行。はじめはどうなることかと思ったが、このグループはねばり強く取材していた。それにしてもこの課題はかなり難しい。たしかに豊島は「協働」が行われている。多くの地域が近代化によって失った「協働」が残っているのが豊島の財産だ。けれども、それをワンカットの映像で示すとしたら僕は何を撮影するだろうか。
というわけで発表会。
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映像の出来に差はあっても、どのグループもそれぞれ努力していたのがわかる。全体的に先生たちの講評はかなり厳しいような気がした。でも、その厳しさが大切。何も見えてない、何も知らないことを自覚するのが大学時代。情けないのは僕もいまだにその段階だということ。まだまだ何も見えていないのを再確認した3日間だった。島の人が厳しくも暖かい目線で学生たちを見ているのがよかった。豊島の人は理解されないことに寛容だと思った。誤解には慣れているからだろうか。その優しさ、あたたかさの裏には悲しさがある。悲しいけど明るい。問題はあるけど、希望もある。島民自身でなんとかしてきた島。
それにしても豊島の人たちの知的な関心の高さには頭が下がる。その知的関心欲は学業のためのものではなく、島の生活による経験に基づいているのだ。
授業が終わったのは22時くらい。その後、石井先生や高橋先生たちとビールを飲みながら芸術祭や豊島についてあれこれ話した。高橋先生の熱い気持ちや、川部先生がワークショップの進め方をすごく反省していることに感銘を受けた。あっという間に深夜3時に。さすがに倒れるように眠りました。
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 9月11日と12日は八十郎の庭をいじるワークショップを行った。11日は8月末のワークショップと同様、はじめに八十郎の庭をフィールドワークから。
庭をフィールドワークした情報をもとに八十郎の庭をどういじっていくかアイデアを考えてもらって発表。次のようなアイデアがでてきた。
・ハンモック計画
・石垣の手入れ
・旗をのれんにするか立てるか…
・すべり台をつくる
・ブランコなどの遊具をつくる
・石をつかったオブジェ
・ドラム缶のお風呂
・縁側をつくる
・草刈りした草を活ける
・五右衛門風呂を沸かす
・井戸で『貞子』ごっこをする
 いつか実現したいアイデアがいろいろ出てきて、これを元に今後の展開を考えることもできそう。ちなみに、これは未来の八十郎の庭をイメージするためで、すぐにどうこうするというわけではありません。でも、会期中に実現する可能性もある。
 午前中のうちに少し草刈りをしてお昼ご飯の後は、ハンモックをつるす木の搬入。八十郎の家の前まで、藤崎さんがトラックで運んでくれた杉の木をみんなで庭まで持って行きました。かなり重たい。
 搬入した杉の皮をみんなでむくとつるつるしてきれいな木肌が出てきた。べりっと皮がはがれる感触がたのしくて、みんな夢中で作業していました。
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 さらにもう1本を藤崎さんの家の前から運んできて、再び皮むき。結局、ちょっと草刈りした以外は、木の皮むきで一日がおわってしまったが満足度の高い日でした。
 12日の午前中の参加者は11日と同じメンバーだったので、フィールドワークは行わずに木を立てるための穴掘りから。30センチほど掘ったところで硬い石が出現。なかなか手強い。藤崎さんや浅先さんと交代で、石を割っていきどうにか掘っていく。
 午後も再び穴掘りして、ついに午後4時ごろ約1メートル弱の穴が掘れた。杉の木の根本を穴において、細い部分に縛ったロープを引っ張って木を立てていく。4メートル以上あるのでなかなかの高さ。穴と木の隙間に土を埋めて叩いていく。
 ハンモックをつってとりあえずの完成。ずいぶん前からハンモックをつろうと言っていた浅先さんもご満悦です。
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それにしてもこの木はすごい。上にのぼっていくと豊島タワーを越える高さ。八十郎の庭に新しいモニュメントが誕生しました。昇ると絶景が見えます。これ。なんと名前をつけたらよいのか…。いっそのこと豊島スカイツリーでいいんじゃないかと思えてきました。
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再びワークショップの告知です。8月28日、29日に行ったワークショップを継続する内容ですが、初めてでも参加できます。本当は、日常的に誰でも八十郎の庭をいじれる状態にしたいのですが、いくつかクリアしないといけない課題があってそれは実現できていません。そこで、日時を決めてワークショップを実施という方法にしていますが、当日は誰でも途中からでも、自由に参加できます。
ぜひ、ご参加ください。

藤島八十郎の家の庭づくりワークショップ

日 時:9月11日(土)、12日(日)
   9時30分~16時30分 時間内だったらいつでも参加OK。いつ帰ってもOK。途中、疲れたり、おなかが減ったり、休みたくなったら休憩します。.

会 場:藤島八十郎の家(瀬戸内国際芸術祭、豊島会場23番)

ワークショップ参加費:無料

事前申し込み不要(当日、会場でスタッフに声をかけてください。

用意するもの:動きやすい服装、帽子、軍手

■お問い合わせ
メール=masaunozawa★gmail.com
     ★を@に差し替えてください。
電 話=090-3426-7527(管巻三十郎/宇野澤昌樹)

内 容:藤島八十郎の庭はなかなか広いです。でも、八十郎はどこかに行ったまま帰ってこないので、そのままほったらかしにしていると、再び30年間空き家だった状態に近づいていってしまいます。そこで、畑の手入れや、草刈り、種まきなどをして、八十郎の留守中にみんなで使えるきれいな庭をつくりたいと思います。

とくに参加申し込みは必要ありません。ときどき休憩しながら、なんとなく1日中やってます。会場にいる管巻三十郎に声をかけてくれれば、八十郎の家が開いている間はいつでも参加できます。

架空の人物(つまり実在しない人物)藤島八十郎を、お客さんを含めたみんなでつくるのが『藤島八十郎をつくる』という活動です。豊島の人や豊島に関心がある人と一緒に何ができるのか実験したいと思っています。

何をつくるかまったく決めていませんし、おおきなモノがどうなるのかもわかりません。
庭の手入れをしたり散歩をしたりしながらイメージが浮かんでくるかもしれません。
当日、来てくれる人によってやることも、できてくるものも違ったものになるでしょう。
なにもできなくてもかまいません。なんとなく八十郎が気になる人もぜひ遊びに来てください。

もうちょっと詳しいことを知りたいという人は、管巻三十郎(宇野澤)までお問い合わせください。といってもたいしたお知らせはできないのですが、できる限りお返事します。
メールアドレスと電話番号は下記の通りです。
 メール: masaunozawa★gmail.com
     ★を@に差し替えてください。
 電話:090-3426-7527
よろしくお願いします。
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8月28日(土)と29日(日)に行ったワークショップのレポートです。諸事情でご報告が遅くなりました。申し訳ございません。
2日間とも、基本的な流れは同じ。まず、僕(管巻三十郎)が「藤島八十郎をつくる」活動の説明を行った後に、参加者とこえび隊のみなさんに藤島八十郎の家を20分ほど自由にフィールドワークしてもらいました。
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庭やおおきなモノをどうしたらいいのか考えながら八十郎の庭をうろうろと。時間になったら集合してそれぞれのアイデアを発表。
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みんなで一番いいアイデアを選んで実行というのではなく、庭を含めた八十郎の家で何ができるかという可能性が広がるのを確認する作業です。人によって、見るポイントやいじりたいものが違っていて、お互い刺激を受けています。花の種をまく、遊歩道をつくる、おおきなモノにつるをはわせる、庭になっているイチジクを使ってコンポートをつくるなどいろいろなアイデアが生まれました。

午後はそれぞれのアイデアを念頭にいれつつ庭仕事。
スケジュールはほぼ同じでしたが、28日は庭の掃除や草刈り、花を植えたいなどガーデニングの部分で反応する人が多かったのに対して、29日に参加してくれた人たちはおおきなモノに関心をしめしていました。
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あまり告知もせず、ほとんど何も決めないで行ったワークショップですが、ありがたいことに東京から参加してくれた人も複数いて、好評でした。「こんなんでいいのかな?」と思いながら進めていたのですが、八十郎の家のスタイルでは、あまりきっちりとしたフレームをつくらずに参加者のモチベーションとアイデアをできるだけ活かせるようにしたほうがいいみたいですね。

28日で庭がだいぶきれいになり、29日は3つに分かれているおおきなモノの一番長い部分を東屋の横に立てました。奇妙な竹の塔。
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八十郎の庭は2段になっていて、上の部分に上がってくれる人が少なかったので、こっちにも何かありますよというメッセージ的な役割を果たしています。旗をつけましょう、というアイデアも生まれているので、これも後日実現したいです。実際、竹の塔ができてから上の段に上がってくるお客さんが増えてうれしいです。
しかし、まだまだこの庭は手を入れるところがいっぱい。おおきなモノも使い方はいろいろありそうです。というわけで、今後もこのワークショップを継続開催しようと思います。告知はブログで行うので、関心のある方はチェックしてください。
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ワークショップの告知です!

おおきなモノと藤島八十郎の庭をいじるワークショップ
日時:8月28日(土)、29日(月)。9時から5時の間。いつでも参加自由です。いつ帰ってもOK。途中、疲れたり、おなかが減ったり、休みたくなったら休憩します。.
会場:「藤島八十郎の家」(瀬戸内国際芸術祭2010作品番号23)
香川県小豆郡土庄町豊島唐櫃1035-6

8月28日(土)と29日(月)に「おおきなモノと藤島八十郎の庭をいじるワークショップを開催します。
危口統之さんが8月8日に行ったワークショップ「おおきなモノを建物に搬入しよう!」で使ったおおきなモノを、危口さんのご好意で藤島八十郎の家にいただくことになりました。おおきなモノは細い竹を組んだ構造体です。これをどう使ったらいいのか、何を作るのか、まだ何もイメージはありません。
とくに参加申し込みは必要ありません。ときどき休憩しながら、なんとなく1日中やってます。会場にいる管巻三十郎に声をかけてくれれば、八十郎の家が開いている間はいつでも参加できます。

架空の人物(つまり実在しない人物)藤島八十郎を、お客さんを含めたみんなでつくるのが『藤島八十郎』という活動です。豊島の人や豊島に関心がある人と一緒に何ができるのか実験したいと思っています。

何をつくるかまったく決めていませんし、おおきなモノがどうなるのかもわかりません。
庭の手入れをしたり散歩をしたりしながらイメージが浮かんでくるかもしれません。あるいは、竹の構造体を分解・分類してもいいかもしれません。
当日、来てくれる人によってやることも、できてくるものも違ったものになるでしょう。なんとなく八十郎が気になる人もぜひ遊びに来てください。
豊島に来て、危口さんが行ったワークショップを想像するだけでもおもしろいはずです。
なにもできなくてもかまいません。竹を触ったり、いじるだけでもいいです。

もうちょっと詳しいことを知りたいという人は、管巻三十郎(宇野澤)までお問い合わせください。といってもたいしたお知らせはできないのですが、できる限りお返事します。
メールアドレスと電話番号は下記の通りです。
 メール: masaunozawa★gmail.com
     ★を@に差し替えてください。
 電話:090-3426-7527
よろしくお願いします。
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藤さんは青森で森の中にこもって豊島の絵を描いているのかと思っていたら、なんとねぶたのシステムに注目していて絵は描いていないみたい。
そのへんがいかにも藤さんらしくて、やっぱりいい感じ。不自然なことをしてもよくないしね。
しかし、なんだかすごい偶然のような気がするのだけど、藤島八十郎の家でサウダージブックスの淺野さんがワークショップをしてくれた8月8日、同じ時間に島キッチンで危口統之さんの行っていたワークショップが藤さんがねぶたに注目するのと微妙にシンクロしているような気がしてならない。ピタリ、とではなく微妙なズレをもったシンクロ状態がうれしい。
危口さんの「おおきなモノを建物に搬入しよう!」というワークショップは、危口さんたちが竹でつくったおおきな構造物を唐櫃の公堂に搬入するというもの。入口がそれほど大きくないので、おおきな知恵の輪のような感じでみんなでああでもない、こうでもないと苦労しながら建物の中に入れる。危口さんは「みんなでものを搬入するのってそれだけでおもしろいから、ただそれだけをやろうと思った」というふうなことを言っていた。うーむ、たしかに搬入はおもしろい。つまらない展覧会も搬入はおもしろかったりする。なんだろう、あの感じは。
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実は淺野さんや僕たちも農民福音学校跡地に行く途中で寄り道(というかまわり道)をして、危口さんのワークショップの様子を見学してきた。
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なんだか、いい雰囲気。苦労している時間がおもしろいし、スリルがある。できあがった作品にはない、現場感。
そして、うれしいことに危口さんのご好意で、竹製おおきなモノを八十郎の家にいただけることになった。現在は3つにバラして、八十郎の庭においてあります。
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さてさて、搬入を難しくするためにつくられたおおきなモノを、どうやって使おうか?
近日中に八十郎の庭の整備とともに、このおおきなモノの使い方を考えるワークショップを実施したいと思います。本当は日常的にこういう素材をいろいろいじってもらえるようにしたいのですが…、芸術祭のパスポートを買ってもらった人にそういう体験をしてもらうようなことに芸術祭の事務局は無関心みたいで…。まぁ、とにかくできあがった作品を見せればいいということなんでしょう。
この芸術祭は、作る人、手伝う人、見る人とか、そういう立場を固定化することにばかり専心しているような気がする。そして、そういう固定化した関係が僕にとってはもっとも関心がもてないものだ。とてつもなく退屈。例えば、専門家ばかりの世の中っておもしろいですか?
豊島の人は、できることはなんでも自分でやります。すべてが商品の東京で、そこから外れた「素人の乱」の活動が数年前から注目されているけど、豊島の人はずっと前から「素人の達人」だ。僕にとってはアーティストよりも島の人のがよほどおもしろい。そして、多くのアーティストは島の人のおもしろさに気がついていると思う。でも、なぜか芸術祭はあんまりおもしろくなさそう。お客さんも大量の作品を見るのに忙しく、バスや船の時間が気になって島をゆっくり見る心の余裕はない。作品だけ見るならそれこそ美術館でいいはずなんだけどね。お客さんが悪いわけじゃなくて、芸術祭の仕組みの問題ですね。まぁ見ないでおもしろくないとか言うと「情報病」とか言われてしまうので、島とか地域と芸術祭の関係に興味がある人は、瀬戸内国際芸術祭に来ることをおすすめします。少なくとも豊島は、島そのものがおもしろいです。石垣がいいし、湧水がいいし、島の人がステキです。

とにかく危口さんはおもしろい人でした。島の盆踊りの練習に一緒に参加したり、いろんな話をしたり、いい経験をさせてもらいました。そういう人と出会えたのも芸術祭のおかげだし、そこは感謝したいです。危口さんも僕も、島の人から多くを学びました。それを、芸術祭に来てくれた人にどのように受け渡していくかという課題は大切にとりくみたいです。
竹製おおきなモノで何か作りたい人は、八十郎の家に遊びに来てください。ワークショップの実施が決まったらこのブログで告知します。もしくは、おおきなモノに興味をもってくれたお客さんと随時作業するとか、何かしらの仕組みを考えるとか、どうなるかはわかりませんが、何かしらのアクションをおこしていくつもりです。庭も荒れてきているんで、草刈りとか、掃除もしなくてはいけませんが、それもセットということでお願いします。
この件に興味のある人はメールをいただけると助かります。何か動きが生まれそうになったら、なるべくご連絡したいと思います。いろいろやることがあって、スムーズに連絡ができない場合もありますが、その際はご容赦ください。
とくに、こえび隊に登録している人が、ボランティア以外の日にこのおおきなモノをいじりたいと思った場合はご連絡をいただけると安心です。なんだか、明文化されていない拘束があって、いろいろうるさいんですよね。ごめんなさい。でも、こえび隊がプライベートでワークショップに参加するのは別に問題ないはず。たぶんだけど。まぁ、何を言ってくるかわからない組織だから、確実なことはなにもないのですが…。
メールアドレスは
masaunozawa★gmail.com
です。★を@に差し替えてください。よろしくお願いします。

えーと、青森のねぶたと何がシンクロしてたんだっけ…。構造体とか仕組みとか収納する仕組みとか、そういうことかな…。藤さんと僕の状況はいつもズレていながら、シンクロしているような気がします。でも、世界ってそういうものなのかも。
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8月8日(日)は淺野卓夫さんのワークショップ2回目。参加者は前日と比べるとだいぶ多い。
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本を1冊選んでもらってから散歩に出かける。今回の目的地は農民福音学校の跡地。
僕が瀬戸内国際芸術祭を機に神奈川から豊島に移住することになり、その準備をしていたころ、淺野さんから彼がブラジル滞在時代に出会ったワルテル・ホンマという日系1世の話を聞いた。
2000年から3年間ブラジルに滞在していた淺野さんは、日系農場コミューンで牛飼いをしていたワルテル氏から多くを学んだ。ワルテル氏は淺野さんが日本のアカデミズムの中で接してきた人間とはまったく違っていた。大学人のように本を読む人ではなかった。厳しい移民体験、過酷な労働と貧しい生活。書物とは無縁の場所で「世界とは何か」を思考し続けた人だった。
日本から離れてブラジルに根をおろして生活したワルテル氏は故国の人を煙たく思っていた。そのワルテル氏がほとんど唯一人心を開いた日本人が藤崎精一さんだった。日本では豊島農民福音学校を運営し、全国から集まる研修生に立体農業(現代の循環型農業に近い農業方法)の指導をしていた。その活動は国内に留まらず、立体農業の指導のために海外にも足を運び、ブラジルには6度も訪れていた。
ワルテル氏はしきりに「フジサキ先生」と口にしていた。その口ぶりから藤崎盛一氏を深く尊敬しているのがよくわかった。しかも、淺野さんはワルテル氏から「もしアンタが日本にもどることがあったら、自分の代わりにフジサキ先生の墓参りをしてほしい」と頼まれていた。
そんな話を聞いてから、今年の4月15日、僕は初めて豊島を訪れた。芸術祭のスタッフが地元の自治会長を紹介してくれた。その男性は藤崎盛清と名乗った。藤崎盛一氏のご子息、藤崎盛清さんだった。その後、藤崎盛清さんには言葉で説明できないくらいお世話になった。

1998年に豊島で藤崎盛一氏が亡くなった。
2002年にブラジルでワルテル・ユキオ・ホンマ氏が亡くなった。

本のワークショップといいながら、農民福音学校ゆかりの地を訪ねた。驚く人もいたかもしれない。でも、そうせずにはいられなかった。かつてブラジルの都市部から離れた農村地帯で藤崎盛一とワルテル・ホンマが出会った。時を隔てて、ワルテル・ホンマと淺野卓夫との出会いがあった。
それは本からも遠く離れた場所だった。実際、読書人としての我々に大きな収穫を気前よく提供してくれた書き手の中には、本のない世界に身を投じて考え、生活してきた人たちがいる。野生の思考。労働の智慧。本のある世界で、本のある世界のことしか考えられなくなることは不自由極まるし、本もつまらなくなる。本は本でない何かを常に記述してきた(それは芸術も同じことで、作品を見ることにばかり時間がとられ、島に訪れながら島を見れない芸術祭の仕組みは考え直すべきだと思う)。いずれにしても、本が世界を記述し人間の想像可能性を拡張してきたことは疑う余地がない。
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農民福音学校まで歩いてから、藤崎盛清さんに父・盛一さんや農民福音学校のことを説明していただいた。農業が近代化し、単一作物・大量生産が主流になっていった時代に、より大きな視点で立体農業を説いて実践した藤崎盛一氏の活動は興味深い。その教育の中に人間の本来的な意味での生活や創造についての洞察があったのは間違いない。
風が通る木立まで移動してから、前日と同様に各自本をとりだし、ページをパラパラとめくった。見ることばかりをお客さん(という設定の人たち)に強いて、参加する仕組みがあまりに貧弱な芸術祭で、本を読まずに風を通すのは痛快だった。八十郎の家ももっと工夫しないとね。
それから藤島八十郎の家に帰って、休憩の後、淺野さんがブラジルでのワルテル氏との出会いからはじまって今回の豊島のワークショップにいたる経緯を、その熱い気持ちとともに話してくれた。ふたりの故人、日系移民、本のない世界、立体農業、ブラジル、豊島。
本のワークショップという言葉からは想像もつかない話題。だけど、みんなが淺野さんの言葉に注目していた。ワルテル老人の熱が移ったかのように、我々も発熱していた。
淺のさんの話の後は小さな本づくり。これも前日と同じ。本を読むだけではなく、本をつくることによって、本との関係が変わる。本が本である前に、より大きな紙であること。大きな紙を折って閉じれば小さな本ができる。手書きのノンブルがふられた小さな16ページの手製本に、それぞれが選んだ1冊から書き写し、最後のページにフロッタージュを施し完成。藤崎盛清さんも参加して、手製の『森の生活』をつくっていた。これでワークショップは終了。
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参加者は満足してくれただろうか。僕にとってはとても手ごたえのある時間だった。充実しただけに、ひどく疲れた。でも、何かが終わって、また新しい何かがはじまる予感がした。藤崎盛清さんのご協力と淺野卓夫さんの友情に感謝。本当に本当にありがとうございます。
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8月7日(土)と8日(日)、サウダージ・ブックスの淺野卓夫さんを藤島八十郎の家に招き、ワークショップを行ってもらった。題して「島と本、本と島」。本のワークショップだけど、普通の意味での読書は行わずに、本をもって島を歩き、島と本について考え、そして本を作った。

8月7日。藤島八十郎の家で集合。まず淺野さんが用意した本と八十郎の本の中から、どれでもいいから1冊選んでもらい、それをかばんの中に入れて、スダジイの森に向かって出発。参加者2人とこえび隊2人、それに淺野さんと僕の計6人の小さな旅。自己紹介したり、いろいろ話をしながら坂道を歩いているといつの間にかずいぶん高いところに。進行方向の左手には瀬戸内海。とても眺めがいい。
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40分ほどでスダジイの森に到着。ここは豊島でもっともいい場所のひとつ。だけど、大勢で行くところではない。6人というのはちょうどいい人数だったかも。木々の間から落ちる光が風でわずかに揺らぐ。
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しばらく木々の間に佇んでから、森を抜けて小さな草原に出た。かばんから本をとり出して地面に広げる。みんなが各自選んだ1冊と、淺野さんが選んだ数冊の本。ヘンリー・デヴィッド・ソロー、ル・クレジオ、ギャレット・ホンゴー。そのまわりを囲んで座る。
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淺野さんが自身の活動と本について、話してくれた。ブックサロンの運営と編集や出版の活動を行っている淺野さんは、「本が好きなんですね?」という質問が一番困ると言う。
大学院まで進み文化人類学や民俗学という学問を学んだ淺野さんが、本から得たものは大きい。けれども、ブラジルに3年間滞在し、日系移民の調査をした体験は、彼の世界認識に強烈なねじれを生んだ。

それはブラジルに日本から最初の移民が渡ってから、ほぼ1世紀が経とうとしていたころだった。日本語とポルトガル語の単語が混成するコロニア語で語る古老たちは、ひとり、またひとりと亡くなっていった。彼らの語りから、貧しく本のない生活の中にも、生きる智慧と哲学があることを知った。
ある牛飼いとの出会いを経て、その仕事を手伝うようになった。干草の重さ、赤い土、老人たちの節くれだった手、そうしたすべてが確かな手ごたえをもっていた。そのままパスポートも捨てて、本のない世界の生活に突入しようと本気で考えた。でも、そうしなかった。本が彼を育て、鍛えたこともまぎれもない事実だからだ。
本のある世界と本のない世界。それは、全然別の世界のようにも思える。ともかく淺野さんは学問の世界からはドロップアウトし、日本に帰ってから本のない世界をつなぎとめるように本をつくった。本のある世界で、本のない世界を考えた。
もちろん、これは僕の翻訳ともいうべき文章。単純な間違いや注意不足による誤解があるかもしれない。ともかく淺野さんにとって本は、好きとか嫌いの基準で判断するものではなくなった。
続いて、広げた本の話に移っていく。(島ではないけれど)街から離れて自然の中で実験的な生活を試みたソローについて。あるいはル・クレジオ、高良勉、ゲイリー・スナイダー。僕にもうれしい名前が並ぶ。そしてギャレット・ホンゴー。文学のための文学からもっとも遠い人たち。人生の一回性を深く認識した世界記述者。ル・クレジオの名前に「石垣」という意味があるのを教えてもらい喜んでしまう。そして、もちろん島について。奄美や沖縄などの島をたびたび訪れ、島の詩人の本を出版してきた淺野さんだからこそできる話だった。
でも、もっともおもしろかったのは、本を読まずに、各自がもってきた本をパラパラとめくったこと。山の中腹の小さな草原で、本を風にさらした。本はカビや虫に弱い。僕らがやったことは、本をかばんの中に入れて持ち歩き、空気のきれいな場所で湿気を逃がしただけだ。本とのつきあい方は読むだけではない。
帰る前にスダジイの森をもう一度体験。森の中で1分間の瞑想。セミがよく鳴いている。風が木々の間を抜け、葉が擦れる。体の感覚が開いていくような感じ。
八十郎の家に戻ってから少し休憩して、小さな本作り。こえび隊も準備を手伝いつつ、一緒に参加。
A3サイズのコピー用紙の長い辺を半分に折る。これをもう2回繰り返すと文庫と同じサイズになる。通常、本はページのサイズの紙を束ねているのではなく、大きな紙を折ったものがベースになってできている。16ページ(あるいは8ページ)が基本単位で、その倍数のページ数で本ができているなど、本の基本的な仕組みを淺野さんが教えてくれる。この仕組みがわかると、手軽に本ができるのだ。
折った紙を広げて、淺野さんが見せてくれる見本をもとに数字を記入していく。一見バラバラに見えるこれらの数字が、折って閉じたときには順番通りに並んでページを示すノンブルとなる。
折った紙の背中の部分をホチキスでとめてから、袋状になっている部分をカッターナイフで切ると16ページの小さな本の原型ができた。
ここで先ほど持ち歩いた既成の本を各自とり出す。表紙にタイトルと著者を書き移す。それから既成本の(テキスト部分の)最初のページを、書き移していく。改ページのリズムは句読点が目安になる。手製本の15ページまで書いたら、16ページにはフロッタージュを施す。葉っぱや石など、なにか素材を選んで、14ページと15ページの間に挟む。16ページを色鉛筆でこすっていくと像が浮かび上がってくる。
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ほんの30分ほどで小さな本ができあがった。本の構造を体験しながら学んで、みんなも充実した表情。ちなみに僕は島尾伸三の『ひかりの引き出し』の小さな手製本をつくった。まさか、島尾伸三の文章を書き移すことになるとは!かなり疲れました。
書店に流通する商品としての本もいいけど、こういう手づくりの本もある。思い立ったときにザザッと手を動かしてつくれる本の魅力は、身近にある自然の中を歩いたり、畑の野菜をとって料理するのに近い。軽快な足並み、ワイルドなつくり。商品化と流通に専心した芸術が失ったソウルが、この小さな本にはある。

ちょっと疲れたけど、たのしいワークショップでした。参加者やこえび隊のみなさま、おつかれさまでした。これから、何か大切な出来事があったら、それを文章にして小さな1冊だけの本をつくるのもいいかもしれませんよ。淺野さん、どうもありがとう。これを機に本について僕ももう一度考えてみたいと思います。八十郎の絵本も、野生の力が宿るものにしたいです。
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8月7日(土)と8日(日)はサウダージの日。
サウダージ・ブックスの淺野卓夫さんが藤島八十郎の家に来て本のワークショップをしてくれる。
ワークショップの詳細はこちら

2年前に北海道で初めて会った。平等の人、オープンな人だった。それは今も変わらない。
本に対しては僕よりも広範なフィールドを歩き、前に進んでいる字義通りの先人。でも、本当にすばらしいのは、そうした彼の読書の成果を後輩たちに気前よく手渡していく態度。生き方、主義、習性、性質。どういってもいいけれど、嫉妬する必要もないくらい僕とは桁の違う人。
ともかく、うれしい。
ブラジルに3年ほど滞在したことがある淺野さんの人生は、その前と後ではまったくあり方が変わっている(と僕は思う)。過去というもう絶対に戻れない時制への淡くて深い思い。

淺野さんは本に拘泥した学者肌の人ではないし、ブック・ディレクターとかいう肩書きを作ってテキトーな仕事をしている人とも全然違う。それは僕にとって、藤浩志がいわゆるアーティストとは違う存在なのと同じことかもしれない。読書量と質の違いはいかんともしがたいけれど、ともかく淺野さんも僕も本から「世界」を学んだことは確かだ。

本というメディアは世界についての記述を常に行ってきた。現実世界について探求して語りつつ、一方でありえたかもしれない世界を提示し続けてきた。表現の方法は違うけれど、美術もまたそれらの役割を果たしてきた。世界の豊かさを教えてくれた。

6月からはじっくり本を読む時間がとれなかった。でも、本はただ待っているからいいのだ。ページを開けばどんな時制の、どんな場所にでも連結する。
山を登るように、冒険するように、ただ歩くように本を読みたい。そして、島。

香川県や岡山県周辺にいて島と本に関心がある人は、ぜひ8月7日(土)または8日(日)の13時45分に「藤島八十郎の家」(瀬戸内国際芸術祭、豊島23番)に来てください。
豊島は本当に豊かな島です。本をつくり、島を歩き、本を読む。豊かな時間をすごしましょう。
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藤島八十郎の家の様子。庭には虫がいっぱいいる。蜂の一種らしい羽虫が死んだクモを運んでいるのを見つけて、思わず撮影。

iPhoneで撮影してノー編集なので荒い映像。

アニメーションの語源がanimalだということを思い出す。英語のanimalに虫が含まれるかどうかよくは知らない。現実の生命の動きの美しさと、僕の友人が時間をかけてつくっているアニメーションのことを考えた。見つめてしまうことの不思議。映像的現実。
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 8月4日は第1水曜日なので、月に1回資源ゴミの日。
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朝早く、空き缶やビンを収集場所にもって行った。すると、近所のおばちゃん2人が、ゴミの分別をしていた。当番制みたい。都市部では自治体が業者に委託して行っていることも島の人たちは自分たちでやっている。それは必要にせまられてのことかもしれないけど、はっきりいって圧倒的に美しいことだ。僕は掃除が下手なので、よけいにそう思う。ちなみに資源ゴミの収集は行政が行っています。調べたらアルミ缶を小学校で回収しているそうで、地域の老人会がそれに協力しているそうです。たしかにアルミ缶も分別して、業者にもっていけばお金になる。学校の予算が少ない地域では重要な活動資金なのかも。それを地域の老人たちが手を貸しているということのようです。
もちろん、僕が過去に住んでた地域でもゴミ収集場所の清掃はその近所の人が行っていた。しかし、豊島の場合はできることは自分たちでやるという意志と助け合いの意識の両方がしっかり根付いているのだ。
 だいたいは捨てる人が分けて置いてくれているのだけれど、それでもアルミ缶の中にスチール缶が混ざっていたり、缶の中に飲料が残っていたり、瓶の色が間違っていたり、おばちゃんたちはけっこう大変そう。そもそも瀬戸内国際芸術祭という大きなイベントがはじまってゴミがものすごく増えている。結局、僕も微力ながらお手伝いをすることにした。
 空き缶のアルミとスチールの分別を確認していると、やたらにタバコの吸殻が入った空き缶がいっぱいでてきた。おばちゃんたちも「困るなぁ…。こんなことなかったんやけどな」と言っている。タバコを吸う人はいても、吸殻が入った空き缶が資源ゴミにこんなにたくさん出されたことはなかったそうだ。
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おばちゃん2人と僕で、けっこうな苦労をして缶から吸殻を出す。おばちゃんは僕が芸術祭が理由で島にいるのを知っているので、芸術祭のことをあまり悪くは言わない。僕には「手伝ってくれてありがとうね」と言ってくれる。僕は島の人の心に触れてうれしい気持ちと、やたらに仰々しい芸術祭に対しての複雑な気持ちで言葉がでない。
 ゴミが増えて地元の人が苦労する芸術祭は美しくない。実行委員会は資源ゴミを出す日の前日ぐらいこえび隊を島に宿泊させて、ゴミの整理を手伝えばいいのに。
 藤さんの言う「誰と」の関係のことを考える。「誰と」一緒に行うかで、同じこともたのしかったりつまらなかったりする。僕は島の人が好きなので、ゴミ分別もたのしい。ここで一緒に作業した経験は僕にとっての財産。突然、今は青森にいる藤さんや一緒に苦労してくれたこえび隊の仲間のことを考える。彼らだったら島の人と行う掃除をきっとたのしんでくれたと思う。あるいは、東京や桜島で一緒に苦労した仲間たち。僕の失敗を許し、見守ってくれた人たち。彼らなら島のおばちゃんの心が傷つくことを僕と一緒に憂い、ただ黙って掃除に参加するに違いない。
 結局は審美的態度の問題なのかもしれない。ゴミの出し方の酷さを嘆き、それでも休まずに動き続け作業するおばちゃんの心は美しい。そういう人たちに目を向けず、来場者の数を誇っていては芸術祭は美から遠ざかってしまう。
 心美しき人たちと作業した時間は充実している。島の人たちにひたすら感謝です。いつも、本当にありがとうございます。
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 今日は久しぶりにこえび隊が来てくれた。なんとハワイから。アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれたエイミーは、ハワイの高校生。しっかりとした意見をもって話す様子に、すっかり大人だと思ってしまった僕は、途中で高校生と教えてもらいびっくり。毎夏、祖母のいる日本に来るというエイミーの日本語はかなり自然だけど、本当の母語は英語。どことなくカタカナで表記したくなるカラフルな音の日本語を使う。「おっとっと」ではなく「オットット」とか、そんな感じ。
 アート系の高校に通っているというエイミーは受付の合間にドローイングやスケッチをしてくれて、八十郎の家をたのしんでくれた。
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 高校を卒業したらどうするの?と訊くと「たぶんメインランドでデザインの勉強するために大学にいきます」と言う。その「メインランド」という島からの視点の単語が、トゲのように僕の心に刺さる。でも、もちろんエイミーには普通の言葉。それからもエイミーはお客さんがいないときにはダンゴ虫やイモ虫を無邪気にいじっていた。
 そして昼食の後の穏やかなひととき。のんびりしていたら、突然の放送音。近くで行われるイベントの告知。やたらに大きな音、大きな声。過剰に明るい口ぶりで案内されるイベントへの誘い。驚くエイミーと毎度のことにうんざりする僕。エイミーは「何、これ?」という。イベントの案内であることを説明すると、「島の人に迷惑デスネ」というエイミー。結局「そうなんだよね。これをやっている人も仕事だからやっているだけなんだけどね」という僕のとてもつまらない発言で会話は途切れた。たっぷりの沈黙の後、エイミーが「戦争みたい」とつぶやく。僕らは話題を変えた。危険地帯を避けて歩くように。
 やがてハワイのワンダーガールはどうしたことかセミの抜け殻を集めだした。手のひらいっぱいの抜け殻を持って歩く高校生はまぶしいくらい健康的。ちょうどいい空き瓶がなかったので、ビワの種が入っていた瓶から中身をとりだして洗った。瓶が乾いたらセミの抜け殻を入れるためだ。抜け殻はとりあえず受付のテーブルの上に山にしておいた。
 豊島タワーをつくってくれた藤崎さんが今日も来てくれた。エイミーがハワイに住む日系人だということから、なんとなく再びハワイや島の話に。「メインランド」という言葉に興味をもったことを僕がエイミーに告げると、「だって(メインランドを)アメリカって言うのは変だから。でも、メインランドの人にはメインランドと言っても通じない。わかってくれない。」とエイミー。
 「豊島の人も、高松を本土と言うからな」と藤崎さん。だけど、藤崎さんの両親が九州出身で、藤崎さんはいわば豊島の移民2世であることを、藤崎さんも僕もエイミーに説明しなかった。あまりに話がややこしくなるような気がして。
 それでも、どこかと隔たった小さな土地=島について3人が同じ時間に考えたことは確かだ。ごく短い時間だったけど。3人の考えていたことは、きっとそれぞれ違う。僕が考えていたのは、「メイン」ではない場所、メインランドの外側でありつつ、また別のどこかとの間にある場所。八十郎の家に貼ってある豊島の唄がもともとはハワイの唄で、それに日本語の歌詞をつけたものだということ。あるいは、豊島で藤崎さんに出会えた不思議。そしてエイミーの存在自体が邦と邦の間で揺れる「シマ」であること。人の心が島であること。悲しいでもなく、うれしいでもない。しかし、そのどちらでもある島という状態。メインランドから離れた場所で生きる選択をした人たちと、その子どもたち。
 おもしろいことに、それからテーブルの上においてあるセミの抜け殻に話題が移った。「それ、どうしたの?」という藤崎さんに、エイミーはついさっきこのあたりで拾ったことを話す。「ハワイにはセミがいないんです。メインランドにはいます。日本のセミとは違うけど」と言うエイミーは、藤崎さんと僕にゲームをしかけているような気もする。なんとなくだけど。でも、ただ豊島と八十郎の家を無邪気におもしろがっているようにも見える。
 しばらくして、仕事に戻るという藤崎さんは帰り際に「あの抜け殻はなんというセミか知っていますか?」と僕とエイミーに問いを発した。首をふる僕らに、藤崎さんは「クマゼミです」と教えてくれた。その呼称は体の大きさによるものだろうということ、鳴き声がミンミンゼミとは違うこと、関東にはいないだろうけど温暖化でその生息地も変化している可能性があることなどが話題に上った。
 藤崎さんが帰った後もエイミーは八十郎の庭を歩きまわり、小さな虫をつかまえてはたのしそうにしていた。エイミーがサンダル履きのまま草むらの中に入っていったので、ムカデに注意するように言うと、「ウヒャー」と叫びながら走って逃げてきた。ワンダーガールもムカデは嫌いみたいだ。「ハワイにもムカデがいっぱいいます。ダイキライデス」断定的な意味の部分が平板な音で強調されておもしろい。
 あっという間に夕方。瓶はまだ完全には乾燥してなかったので、僕は瓶の中にタオルを入れて拭いてから、エイミーに手渡した。クマゼミの抜け殻を瓶の中に入れてテーブルの上においたエイミーは、てきぱきと荷物をまとめてから大きな声で「アリガトウゴザイマシタ」と言って去っていった。
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藤島八十郎の家で本のワークショップを行います!!
神奈川県の三浦半島から淺野卓夫さんに来ていただきます。
本が好きな人には偏屈な人が多い気がしますが、淺野さんは心の大きな人です。
本の人というよりは、ローカルな視点から世界をまるごと知覚しようとしている人、僕がもっともリスペクトする人です。
8月7日か8日に豊島に来る人で、島や本に関心がある人はぜひご参加ください。


本のワークショップ「島と本、本と島」
日時:8月7日(土)14時~
   8月8日(日)14時~
会場(集合場所):「藤島八十郎の家」(瀬戸内国際芸術祭2010作品番号23)
香川県小豆郡土庄町豊島唐櫃1035-6
ゲスト:淺野卓夫/ サウダージ・ブックス( http://saudadebooks.jimdo.com/ )
主催:藤島八十郎( http://hachijuro.exblog.jp/ )
申し込み不要(13時45分までに会場に集合してください。ワークショップ中は会場から離れて島を歩きます。約2時間のワークショップを予定しています)
問合せ先:島八(管巻三十郎/宇野澤昌樹)
     電話 090-3426-7527
 メール masaunozawa@gmail.com

※各日、ほぼ同じ内容のワークショップを行う予定ですが、多少の変更をする場合があります。


海にかこまれた「島」は、地理的な条件から必然的に独自の文化様式を育みつつ、他の島や地域と響きあう影響関係をもっています。独自性と関連性という一見矛盾する要素をもつ島の生活文化は、人間が土地に生きるために必要としてきた基礎的な創造性に支えられています。
島とは、いったい何なのか?世界中の島々で、豊かな文学が生まれ、芸術家が創造を行ってきました。それは、優れた文学者や芸術家が島に惹かれたということだけではなさそうです。
島に暮らす人にとって、創造行為は日常的なことです。近代的な商品流通システムではハンディキャップとなる地理的条件が、できることはなんでも自分たちでするという創造的姿勢を育ててきました。
島の外にいても、島の創造文化は波のようにおしよせてきます。美術や文学は、常に島の風土と文化に学び、影響を受けてきました。

このたび神奈川県の三浦半島でブックサロン「サウダージ・ブックス」を主宰する淺野卓夫さんを「藤島八十郎の家」にお招きし、ワークショップを行うことになりました。淺野さんには島や海についての本をお持ちいただきます。豊島の唐櫃の岡周辺を歩いたり、本をみんなで読んだりして、豊島と世界中の島について考えます。


■淺野卓夫(あさのたかお)
サウダージ・ブックス共同代表 。文筆・編集・出版のほか、書物文化にかかわるトークイベント、写真展・美術展・上映会の企画をおこなう。人類学を勉強するため、ブラジルに三年間滞在。サンパウロ奥地の日系移民の古老から聞き書きをおこない、本から遠く離れた世界で「旅する声」の教訓に耳と手で学ぶ。帰国後は、学問世界からドロップアウト。最近は奄美自由大学や山口昌男文庫の活動に関わり、大阪猪飼野の路地を時々さまよう。また沖縄、奄美、済州島、台湾へと島旅をつづけている。
http://saudadebooks.jimdo.com/

■藤島八十郎(ふじしまはちじゅうろう)
藤島八十郎は架空の人です。藤浩志と管巻三十郎が、島の人やさまざまな人たちとの関係によって藤島八十郎をつくろうとしています。
藤島八十郎は島の人が好きで役に立ちたいのですが、どこかズレてしまいます。役立たずの八十郎と呼ばれています。
不器用だし、何のアイデアもない八十郎ですが、島の人に喜んでもらえるようなステキなことをしたいと思っています。
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