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山田創平さんに瀬戸内海と海洋文化について語ってもらいました。

10月17日藤島八十郎の家で、「水のある場所」をキーワードに日本各地を訪ね歩き調査している社会学者の山田創平さんに、瀬戸内海と海洋文化について語ってもらいました。
山田さんの話はものすごくおもしろかったです。本当にすごい人でした。でも情報量が多すぎて僕には要約できません。ここでは、たくさんのトピックの中から特に気になったところを書いておきます。
・まず瀬戸内海についての基礎的な知識。平均水深約30メートルの非常に浅い海として知られている瀬戸内海ですが、最も深いところは454メートルもあるということ。そして21本の1級河川が注いでいます。こういった地理的な条件が瀬戸内海の複雑な潮の流れをつくりだし、豊かな生態系を築いてきたようです。
・そして海の人の暮らし。日本には海民と呼ばれた人がいました。海辺に暮らし、漁をして生計をたてていた人たちです。海民は殺生をするため、仏教的思想が広まってからの日本では賎民とされてきたそうです。
・海民は広範なネットワークをもっていました。その範囲は中国大陸や朝鮮半島、東南アジア、さらに南の方まで及んだと考えられています。
・もちろん瀬戸内海地域にも多くの海民が暮らしてきました。驚いたことに九州から瀬戸内海地域にかけて、海民には末子相続という制度があったそうです。近現代の日本の長子相続とは反対に末っ子が両親の財産を相続するというものです。長子相続は共同体を構成する人数を増やしたい場合に有効で、反対に末子相続は共同体の人数を減らしたい場合に機能するそうです。
・藤さんが山田さんを案内したスダジイの森についても話題に出ました。スダジイの森の奥にある権現神社。そのさらに背後にある大きな岩があります。この大きな岩は信仰の対象となる巨石でイワクラと呼ばれるものだろうということでした。
・海民は海だけを見ていたわけではありません。海民にとって島や山は自分たちの位置を測る重要なポイントでした。
・瀬戸内海の島は石が採れることで有名ですが、一方でそれらの石を大阪や京都に運ぶための船を操縦する技術にも長けていました。大阪で石を運んでいた三十石船を操縦していた人たちの多くは豊島や直島の出身だという文献資料もあるそうです。

他にもたくさんのお話をしていただきました。山田さんは文献を大量に深く読みつつ、実際に土地を歩き観察しています。フィールドワークと文献狩猟のバランスがとてもいい人でとても感心してしまいます。
僕が思ったのは、まず僕自身が日本のことをまったく知らないという情けない事実。一方で、山田さんが読んでいるような古い文献資料を僕は読むことさえできないだろうというのも想像できます。例えば200年前の文献を僕がどれだけ読むことができるかというと、かなり難しいでしょう。学がないといえばそれまでですが、現代に生きる我々と200年前の人たちに言語的なズレがあるのも確かなことです。200年前でも苦しいですが、6世紀とか7世紀の史料となれば外国語のようなものでしょう。日本の近代化の問題なのかもしれませんが、それはともかく日本で土地の歴史を学んでいく場合、山田さんのような人の翻訳的な仕事が重要になってくるのは間違いありません。ここで僕はあえて翻訳という言葉を使っています。ある言葉を受け取り、それを別の体系に置き換えていく。それは単純なシステム的作業のように思われるかもしれません。しかし、誰かが書いた意志を受け取り別の誰かに渡していくという作業には、創造の本質があるような気がします。創造という言葉はともかく、大量の情報を読み込み、比較検討し、関連づけていく「翻訳者」の視点が重要になってくるのは間違いないでしょう。
いずれにしても、山田さんにもっともっといろいろ教えてもらいたいと思いました。そういう機会を今後もつくっていきたいです。山田さん、どうもありがとうございました。