セーター、ちくちく(その2)

「セーター、ちくちく」の話がどうにも気になっていたら、なんと藤島八十郎をつくる藤浩志も「セーターはちくちくするから嫌い」と言い、あげくの果てには「僕、セーターなんて1枚ももっていないもん」と自慢しはじめた。
偶然かもしれない。でも藤崎さんと藤さんが、ちくちくするセーターを嫌いなのには何かあるような気がした。
藤さんの場合も、子どもが寒い格好をしていては可哀想と思った親が用意したセーターだったようだ。
藤崎家では羊毛から手づくりなので、これは今考えるととっても貴重なものだ。毛糸をつくる技術だって素人だったようだし、今のように洗練された着やすいセーターではなかったのも想像できる。その1枚のセーターは交換不可能で、盛清さんのためだけのものだった。
このエピソードに僕が惹かれるのは、親が子どもに手渡そうとしたものを、子どもが受け取れなかったということだ。親の価値観を共有できなかった欠落。そんな欠落は誰でもあるはずだと思う。先行世代の価値観を肯定できなかったということを、どう自分なりに引き受けて、新しい価値を創造し生きていくのか。それは芸術の分野が常に考え実践してきたことだ。
藤さんは「ちくちく」するセーターが嫌いで、「つるつる」した服ばかり着ている。でも、それが服ではなかったら「ちくちく」したものが好きだったかもしれない。豊島の石垣も僕には「ちくちく」しているように見える。この石垣がずっと残るのか、そうでないのかは僕にはわからない。
僕はセーターも着るし、つるつるした服も着る。でも、親の価値観を受け取れなかったことはいくらでもある。共有できたかもしれないのに共有できなかった価値観、自分が捨ててしまった何か、そんな欠落を大切な思い出として話す人が僕は好きなんだと思う。
[PR]