バットでボールを打つように

父が1月初旬に他界した。
すでに昨夏から入院して、助かる見込みはないと知っていたから、それほど感傷的な気持ちにはならなかった。父親との関係は決して良好とはいえず、後悔することもあるが私事の領域を出ない話なのでここでは書かない。
しかし、瀬戸内国際芸術祭で僕が体験したことがなんだったのか、父親が死んだことによって、以前よりもはっきり見えてきたような気はする。結局、僕が瀬戸内国際芸術祭をたのしめなかったのは、僕の幼稚な振る舞いが自分で自分を動きにくくしたのだと思う。
藤さんには何度も「芸術祭のおかげで豊島に入れたのだから、芸術祭に感謝すべきだし芸術祭に問題があればそれを解決していく主体としてがんばるべきだ」と言われていた。それは、そのとおりでまったくの正論だ。でも、そうはできなかった。
瀬戸内国際芸術祭の始まる前に通っていた大学院でも僕は同じような振る舞いをしていた。僕の指導教官だった管啓次郎先生は本当に優れた人だったし、誰よりも僕のことを気にかけてくれていた。管先生のブログに次のような記述がある。
大学院に入ったのに「論文を書きたくない」というどうにも理解に苦しむことを平気で口にする者がいたが、それでは野球チームに入団しながら「試合に出たくない」というようなもの。まったくバカげている。

僕のことだ。たしかにバカげている。瀬戸内国際芸術祭でも同じように僕は「試合に出たくない」といってたわけだ。それは藤さんには理解に苦しむことだったと思う。
思い出すのは、藤さんが「芸術祭のことも、大学院のことも、お父さんのことも、全部同じ」と言ってたこと。僕がそれぞれに恩恵を受けているのに気がついてないし、感謝が足りないという指摘だった。その言葉を当時は肯定できなかったけれど、今は当たっていると思う。

今になって考えてみると実の父親のように僕のことを心配し気にかけてくれた人が何人かいて、管先生や藤さんもそうだった。年齢的には父親というよりも年の離れたお兄さんというくらいだが、ともかく彼らは僕のことをよく観察し、より可能性のある道を示そうとしてくれた。それは本当にありがたいことだと思う。
でも、結局のところ、僕の未来は僕が見つけないと意味がない。僕が管啓次郎や藤浩志を尊敬しおもしろいと思うのは、人生のところどころで、彼ら独特のユニークな選択をしているからだ。鮮烈にして特異な生き方だ。もちろんそういった人生の鮮やかなポイントだけではなく、その前後の独特な活動を継続する努力がすばらしいのだ。
だから、僕は管先生にどうしたら大学の先生になれるかということは教えてもらいたくなかった。だって、僕は大学の先生になりたいわけではないし、それは僕にとって継続できる道ではないから。藤さんにアート関係の仕事を薦めてもらいたくなかった。僕はそんな道を歩きたいと思っていない。
僕のことを気にかけてくれるのはわかっている。でも、率直に書くと、彼らに僕の人生の先回りをして僕が歩くべき道に標識を立ててもらいたいなんて思わない。僕が進むべき道をきれいに舗装してもらいたくない。僕が進む道は僕しか見つけられない。僕が見つけないと意味がない。
もちろん誰も歩いたことのない前人未到の地を行きたいなんて思っていない。僕がこれからすることのほとんどはすでに誰かがしているだろう。それで、いい。誰が歩いた道だろうとかまわない。だけど僕は僕の人生を全面的に新鮮に生きたい。
世界には無数の足跡がある。そのどれもが掛け値なしに尊い人の生きた証だ。なかでも管啓次郎や藤浩志の足跡は僕にとっては特別で、それがすなわち道標だった。
だから感謝が足りなかったのもそのとおりだ。管先生にも芸術祭にも藤さんにも。父親にももっと感謝すべきだった。

野球チームに入って「試合に出たくない」というのはたしかにバカげている。でも野球の試合は勝負である前にゲームだ。人が投げたボールをバットで打ち返すことに、すでに喜びがあるのだ。打撃の手ごたえに野球の秘密と動機がある。バットに当てられないようにボールを投げる者と、バットを構えボールを打撃し遠くに飛ばそうとする者。プロ野球選手になりたくて野球をやるやつもいるけど、ただおもしろいからやっているやつもいる。それでも真剣勝負の試合はできるし、いいゲームだって成立する。大リーガーになりたい人しか野球をしたらいけないとしたら、僕は野球をたのしめないだろう。
結局のところ、僕は大学の先生になるための論文は書きたくない。芸術祭のために島にいることもできない。島にいたいのは島と島の人が好きだからだし、それ以外の何の理由もない。

芸術祭には反対ではない。問題もあったけど、いいところもたくさんあった。だから芸術祭を賛成か反対かの二元論で語りたくない。「いろいろ問題はあったけどよかった」というような簡単な言葉で回収されたくもない。いいことも悪いことも、どんなできごともひとつひとつそれぞれが僕にとって大切な思い出だからだ。
北川フラムさんと話して不思議な感じがしたけど、僕は北川さんのことが好きになった。どうしてかはわからないけど。何か協力できることがあれば、したいと思った。
でも、それと僕の人生のこれからは別問題だし、僕が芸術祭との関係を前提に島に住むのは無理な話だ。もちろん北川さんも芸術祭もそんなことは要求してないんだけど。とにかく今後、芸術祭に何か僕が協力できることがあればしたいと思う。それはどうなるかわからないけど。ただ芸術祭を前提に島に住むことはできないというだけ。
僕は幼稚だと思う。だからといって無理して大人ぶってもしかたがない。もうアート関係の人で僕に関わろうという人はいないかもしれないけど、それはそれでいい。まったくいいことだ。

僕は父親のことを好きになれなかった。それは悲しいことだった。父親の価値観を受け入れることができなかった。父が僕に受け渡そうとした価値観を僕は拒否した。何も受けとらなかったわけではない。僕がほしいものだけを泥棒のように奪っていった。父親はただそれを見ていた。僕たちはあるときから親子ではなくなったようだった。友人でもないし他人でもない。なんだったのだろう。成立していた関係を僕が壊したのは確かなことだ。
父親が彼の人生で何をしたかったのか、僕には理解できなかった。僕が何をしたいのか父は理解できなかったし、そのことを悲しんでいたようだ。僕は父親に何かしてもらいたいなんて思っていなかった。ただ彼が生きたいように生きてほしかった。僕のために生きてほしくなかった。僕が父親のために生きることを拒否したからだ。
僕は管先生や藤さんのことが今でも好きだし、その理由は彼らがその人らしく生きているからだ。それが一番かっこいい。彼らの歩いている地点を歩いてみたいと思うことはある。たとえその場所にたどり着いたときには、彼らがはるか彼方に歩みを進んでいたとしても、それはそれでいい。

そんなことを考えていたら、藤さんが藤島八十郎の絵を描き始めたようだ。それは僕にとっては圧倒的にうれしいことだ。
僕もこれからどんどんテキストをアップしていく。さんざんお待たせしているので誰も信用しないだろうし、藤さんはテキストはもうあきらめているかもしれない。それは僕が悪いから仕方がない。書くということが僕にとって大切なのはわかっている。僕は試合に出たいのか、そうでないのかよくわからない。ただバットでボールを打つように書きたい。
というわけで「八十郎の絵本のためのテキスト」というカテゴリをつくって、これからはそっちを更新することに努力します。
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