カテゴリ:八十郎をつくる三十郎の日記( 46 )

今日の豊島は夕方から雨。雨が降ると困る。でも恵みの雨。植物が育つだけではない。雨は雨という存在だけでいい。とくに島の雨ならなおさらだ。雨の音を聴こう。島にぶつかる音だ。建築物の屋根に雨が落下する音は構造上よく響く。石や土、そして池や海にも雨は降りそそぎ、それぞれの音を響かせる。今日、僕はビニールハウスの中で草ぬきをしながら雨音を聴いた。ビニールに落ちる雨音がハウスの中に反響した。僕はカリブ海の島国キューバのスコールを思い出した。陽気がビニールハウスの中で熱をもち、熱帯の記憶を呼び起こしたのかもしれない。日本の豊島とキューバのイスラ・デ・ピノス。島国のそのまた島。
水が水蒸気になって空高く上昇し雲になり、やがて雨として落下する。その水の旅を想像しよう。目に見える水から水蒸気という不可視の存在になり、重力に逆らって上昇する。再び姿をあらわし重力に従い落下する。何千メートルかの垂直方向の移動の間に、どれほどの水平距離の移動があるだろう。今日、島に落ちてきた雨のこの一滴は雲になる前、どこの海にいただろう。今目の前にある1リットルの水の1年前の所在を考えてみよう。その集合と離散の複雑さは想像を絶する。
植物は地中の根から水分とともに栄養を得る。人の体も約7割が水分だといわれている。途方もない距離を移動している水のつかの間の休憩地点が、ただひっそりと咲く花や名前も呼ばれることのない雑草であり、僕やあなたの体である。
雨は土砂を削り、時間をかけて石を砕く。水が地形をつくる。今ある地形をなぞり、地形にそって流れる。土地に従っているように見せて、土地を少しずつつくり変えていく。そう考えると雨はまるで島の人の言葉のようだ。島の人が島を語る。島のできごと、誰がどうした、そんなうわさ話。でも、その語りの受け渡し、言葉の流れが同時に島をつくっているからだ。
晴れの日は島の人の話を聴こう。豊島ではそれほど雨は降らない。話が好きな人はたくさんいる。嫌いな人もいると思うけど。雨が降ったら雨音を聴こう。島の気配が近づいてくる。
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ブログを再開します。
正直いってもうこのブログを書くのを止めようかと思ったのですが、人からいろいろ言われて自分がやりたかったことに対してモチベーションが下がるのはバカバカしいし、まだ書きたい熱は保っているので再開します。
ただし、「藤島八十郎をつくる」プロジェクトはとりあえずお休みになると思います。プロジェクトの今後について知りたい人は藤浩志さんにお問い合わせください。何か動きが生まれて告知することができた場合、そのときこのブログが続いていればもちろんここでも発表します。
僕、管巻三十郎はこのブログで、(1)「藤島八十郎をつくる」活動でおこったできごと、(2)僕が豊島で生活している日常のあれこれ、の2種類の文章を書いていくつもりです。
(1)は時間がたってしまったし、ドキュメントというより回想という形になってしまいますが、たくさんの協力してくれた方がいるので、できるだけ文章にしたいと思っています。
(2)については、八十郎のブログとは別にしようかと悩みました。「藤島八十郎をつくる」は瀬戸内国際芸術祭2010に参加している藤浩志さんの作品としての活動で、僕もアシスタント兼プロジェクト・パートナーとして参加しましたが、瀬戸内国際芸術祭2010が終了した以上、今の僕の生活は芸術祭とは関係がないからです。しかし、八十郎の活動があったから今の豊島での僕の生活があるのも事実だし、本来なら会期中に記述するはずだった島の日常を八十郎の活動の延長として書きたい気持ちもあります(ただし、芸術祭にとって都合が悪かったらいつでも止めるので、実行委員会の人は問題があれば僕までご連絡ください)。僕の日常生活といいつつも、それは豊島のフィールドノーツになるでしょう。とりあえずは八十郎のブログの中で(2)の内容も書いていきます。
僕自身はアートに対する関心を失っているので、アートファンが喜ぶようなものは書けないでしょう。申し訳ないですが、そういう期待に応える資質は僕にはありません。でも「八十郎をつくる活動」に興味をもってくれた人がいたとして、そういう人が読んで何か考えてくれるようなものが書けたらいいと思っています。というわけで、あまり期待せずにときどき覗いてください。
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父が1月初旬に他界した。
すでに昨夏から入院して、助かる見込みはないと知っていたから、それほど感傷的な気持ちにはならなかった。父親との関係は決して良好とはいえず、後悔することもあるが私事の領域を出ない話なのでここでは書かない。
しかし、瀬戸内国際芸術祭で僕が体験したことがなんだったのか、父親が死んだことによって、以前よりもはっきり見えてきたような気はする。結局、僕が瀬戸内国際芸術祭をたのしめなかったのは、僕の幼稚な振る舞いが自分で自分を動きにくくしたのだと思う。
藤さんには何度も「芸術祭のおかげで豊島に入れたのだから、芸術祭に感謝すべきだし芸術祭に問題があればそれを解決していく主体としてがんばるべきだ」と言われていた。それは、そのとおりでまったくの正論だ。でも、そうはできなかった。
瀬戸内国際芸術祭の始まる前に通っていた大学院でも僕は同じような振る舞いをしていた。僕の指導教官だった管啓次郎先生は本当に優れた人だったし、誰よりも僕のことを気にかけてくれていた。管先生のブログに次のような記述がある。
大学院に入ったのに「論文を書きたくない」というどうにも理解に苦しむことを平気で口にする者がいたが、それでは野球チームに入団しながら「試合に出たくない」というようなもの。まったくバカげている。

僕のことだ。たしかにバカげている。瀬戸内国際芸術祭でも同じように僕は「試合に出たくない」といってたわけだ。それは藤さんには理解に苦しむことだったと思う。
思い出すのは、藤さんが「芸術祭のことも、大学院のことも、お父さんのことも、全部同じ」と言ってたこと。僕がそれぞれに恩恵を受けているのに気がついてないし、感謝が足りないという指摘だった。その言葉を当時は肯定できなかったけれど、今は当たっていると思う。

今になって考えてみると実の父親のように僕のことを心配し気にかけてくれた人が何人かいて、管先生や藤さんもそうだった。年齢的には父親というよりも年の離れたお兄さんというくらいだが、ともかく彼らは僕のことをよく観察し、より可能性のある道を示そうとしてくれた。それは本当にありがたいことだと思う。
でも、結局のところ、僕の未来は僕が見つけないと意味がない。僕が管啓次郎や藤浩志を尊敬しおもしろいと思うのは、人生のところどころで、彼ら独特のユニークな選択をしているからだ。鮮烈にして特異な生き方だ。もちろんそういった人生の鮮やかなポイントだけではなく、その前後の独特な活動を継続する努力がすばらしいのだ。
だから、僕は管先生にどうしたら大学の先生になれるかということは教えてもらいたくなかった。だって、僕は大学の先生になりたいわけではないし、それは僕にとって継続できる道ではないから。藤さんにアート関係の仕事を薦めてもらいたくなかった。僕はそんな道を歩きたいと思っていない。
僕のことを気にかけてくれるのはわかっている。でも、率直に書くと、彼らに僕の人生の先回りをして僕が歩くべき道に標識を立ててもらいたいなんて思わない。僕が進むべき道をきれいに舗装してもらいたくない。僕が進む道は僕しか見つけられない。僕が見つけないと意味がない。
もちろん誰も歩いたことのない前人未到の地を行きたいなんて思っていない。僕がこれからすることのほとんどはすでに誰かがしているだろう。それで、いい。誰が歩いた道だろうとかまわない。だけど僕は僕の人生を全面的に新鮮に生きたい。
世界には無数の足跡がある。そのどれもが掛け値なしに尊い人の生きた証だ。なかでも管啓次郎や藤浩志の足跡は僕にとっては特別で、それがすなわち道標だった。
だから感謝が足りなかったのもそのとおりだ。管先生にも芸術祭にも藤さんにも。父親にももっと感謝すべきだった。

野球チームに入って「試合に出たくない」というのはたしかにバカげている。でも野球の試合は勝負である前にゲームだ。人が投げたボールをバットで打ち返すことに、すでに喜びがあるのだ。打撃の手ごたえに野球の秘密と動機がある。バットに当てられないようにボールを投げる者と、バットを構えボールを打撃し遠くに飛ばそうとする者。プロ野球選手になりたくて野球をやるやつもいるけど、ただおもしろいからやっているやつもいる。それでも真剣勝負の試合はできるし、いいゲームだって成立する。大リーガーになりたい人しか野球をしたらいけないとしたら、僕は野球をたのしめないだろう。
結局のところ、僕は大学の先生になるための論文は書きたくない。芸術祭のために島にいることもできない。島にいたいのは島と島の人が好きだからだし、それ以外の何の理由もない。

芸術祭には反対ではない。問題もあったけど、いいところもたくさんあった。だから芸術祭を賛成か反対かの二元論で語りたくない。「いろいろ問題はあったけどよかった」というような簡単な言葉で回収されたくもない。いいことも悪いことも、どんなできごともひとつひとつそれぞれが僕にとって大切な思い出だからだ。
北川フラムさんと話して不思議な感じがしたけど、僕は北川さんのことが好きになった。どうしてかはわからないけど。何か協力できることがあれば、したいと思った。
でも、それと僕の人生のこれからは別問題だし、僕が芸術祭との関係を前提に島に住むのは無理な話だ。もちろん北川さんも芸術祭もそんなことは要求してないんだけど。とにかく今後、芸術祭に何か僕が協力できることがあればしたいと思う。それはどうなるかわからないけど。ただ芸術祭を前提に島に住むことはできないというだけ。
僕は幼稚だと思う。だからといって無理して大人ぶってもしかたがない。もうアート関係の人で僕に関わろうという人はいないかもしれないけど、それはそれでいい。まったくいいことだ。

僕は父親のことを好きになれなかった。それは悲しいことだった。父親の価値観を受け入れることができなかった。父が僕に受け渡そうとした価値観を僕は拒否した。何も受けとらなかったわけではない。僕がほしいものだけを泥棒のように奪っていった。父親はただそれを見ていた。僕たちはあるときから親子ではなくなったようだった。友人でもないし他人でもない。なんだったのだろう。成立していた関係を僕が壊したのは確かなことだ。
父親が彼の人生で何をしたかったのか、僕には理解できなかった。僕が何をしたいのか父は理解できなかったし、そのことを悲しんでいたようだ。僕は父親に何かしてもらいたいなんて思っていなかった。ただ彼が生きたいように生きてほしかった。僕のために生きてほしくなかった。僕が父親のために生きることを拒否したからだ。
僕は管先生や藤さんのことが今でも好きだし、その理由は彼らがその人らしく生きているからだ。それが一番かっこいい。彼らの歩いている地点を歩いてみたいと思うことはある。たとえその場所にたどり着いたときには、彼らがはるか彼方に歩みを進んでいたとしても、それはそれでいい。

そんなことを考えていたら、藤さんが藤島八十郎の絵を描き始めたようだ。それは僕にとっては圧倒的にうれしいことだ。
僕もこれからどんどんテキストをアップしていく。さんざんお待たせしているので誰も信用しないだろうし、藤さんはテキストはもうあきらめているかもしれない。それは僕が悪いから仕方がない。書くということが僕にとって大切なのはわかっている。僕は試合に出たいのか、そうでないのかよくわからない。ただバットでボールを打つように書きたい。
というわけで「八十郎の絵本のためのテキスト」というカテゴリをつくって、これからはそっちを更新することに努力します。
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前回のブログを書いてから、たくさんの人たちにご心配をいただいております。
ひとまず藤島八十郎の家は撤去ということになりました。ご報告が遅れて申し訳ございません。
藤島八十郎をつくる活動に参加してくれた人たち、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。

北川フラム氏には、12月18日に今後のことを相談させていただきました。こちらからプランを出せば検討してくれるようにご配慮もいただきました。しかし、藤さんと相談して今回はプラン提出を見送り、八十郎の家は撤去するという選択をしました。一度リセットして、もっといい形で八十郎をつくる活動を展開する機会がきっとあると思うので、それまで様子をみたいと思います。
そんなわけで、12月下旬に八十郎の家をかたづけました。
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(写真はすべて農園主さん撮影です)
ちょっと寂しいですが、藤島八十郎の活動は今後もなんらかの形で継続できるような気がしています。それに絵本のためのエピソードもまだだし…。これは僕がのろのろしていただけなので、1月と2月で進めていきます。ネタはどんどんたまっているので大丈夫です。
八十郎の活動に参加、ご協力、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。
2010年もあとわずかですが、よいお年をお迎えください!
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ことの顛末は藤浩志さんのブログにあるとおりですが、あらためて説明しておくと、管巻三十郎(宇野澤)すなわち僕の瀬戸内国際芸術祭実行委員会に対する態度があまりにも悪いということで、北川フラムさんから藤さんがお叱りを受けました。
これは実際にその通りで、僕も反省するところが多いにあります。今さらですが、北川さんにお会いしてお詫びを申し上げたいと思います。
実行委員会のみなさんを不愉快な気持ちにさせてしまったことも想像に難くないです。ご迷惑をおかけしました。

この件は100%僕に非があります。僕が参加しない形で藤島八十郎をつくる活動が継続していけたら、それが望ましいことだと思います。もちろん僕が意見をどうこう言える立場ではありません。北川さんをはじめ実行委員会の判断がまず大事です。芸術祭のおかげで八十郎の活動も成立していたのに、その芸術祭に対して僕の態度はあまりに不誠実でした。

とくに芸術祭について反対の立場をとるつもりもないのですが、そう誤解されてしまった原因は僕の発言を含めた振る舞いにあるのですから自業自得です。
どんな派閥にも属せないし、属そうとしないのが僕です。芸術祭に参加している以上、芸術祭を推進していく立場なのですが、そこにいることは僕個人にとっては不自然なことで、まったく息苦しい経験でした。要するに社会的なルールを守れていないのだから、どれだけ非難されてもしかたがありません。

しつこいし、言い訳がましいですが、芸術祭反対派ではありません。
4月から豊島で生活し、たくさんの島の人にお世話になりました。島には芸術祭を応援してくれている人もいるし、無関心な人もいるし、あまりよろしく思っていない人もいます。豊島に訪れたばかりのころ、芸術祭への関心がどうあるかということ以上に、典型的な「島の人」というイメージを超えた多様なキャラクターが豊島にいることに僕は驚きました。芸術祭についてどんな意見をもっている人であろうと、その人が島でどのように生きてきたかを学んでいきたいというのが豊島と関わる僕のモチベーションになっていきました。
豊島の人の多くがかつては牛を飼っていました。ミルクの島と呼ばれていたこともあったそうですが、畜産業の構造の変化によって、酪農を豊島で行っても収益が上がらなくなり、今ではほとんどの家が牛を手放しています。
また豊島は石も有名で、かつては石工もたくさんいたようです。これも中国産の安い石が輸入されるようになって、石工さんも徐々に減少しているようです。
豊島で今生活している人たちは多くが、そうした社会構造の変化が理由で職業を変えた経験をしています。都市部に移住すれば、仕事も見つかりやすいはずですが、島に生きることを選択し、そのための生業をつくってきた人たちです。過去の仕事をあきらめ、彼らにとっての新しい生き方に身を投じた人たちです。挫折を心の底に沈めたまま、希望をもち、前向きに生きている島の人たちが僕は好きです。あきらめと希望、期待と不安。僕が豊島で行いたいのは、常に拮抗するふたつの気持ちを抱えた島の人の人生を肯定することです。そのことにはっきりと気がついたのは、つい最近のことで、芸術祭の会期が終了してからですから、まったく我ながら間抜けです(蒙を啓いてくれたのは友人のアーティストでした。ありがとう、ありがとう)。

だから芸術祭については反対ではないのですが、島の人を芸術祭に協力的な人とそうでない人に分けて見るような状況が僕には耐えられなかったのも事実です。誤解のないようにいっておくと、その状況とは、実行委員会が島の人をどう見ていたかということだけではなく、芸術祭にどういう態度をとっているかを島の人同士でもお互い観察しあう程、芸術祭が島をおおっていたということです。
しかし、だからといって僕の態度が正しかったと主張したいわけではありません。幼稚な振る舞いをして関係者のみなさんにご迷惑をおかけしたことを、申し訳なく思っています。

僕としても自分が参加している藤島八十郎をつくる活動の部分で芸術祭に貢献していきたいとは思っていました。結果的には、何かある度に幼児のごとく振る舞い、芸術祭に迷惑をかけてしまっていて、バカというしかありません。

北川フラムさんをはじめとする実行委員会のみなさまにはご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません。

藤浩志さんの期待も裏切るようなことになってしまったのは誠に残念です。我ながら情けないです。
芸術祭というフレームを前提にするのであれば、僕よりも適切な人材はたくさんいるはずなので、そういう人が豊島で藤さんと活動してくれることを願っています。

「藤島八十郎をつくる」活動にご協力いただいたみなさん、応援してくれたみなさん、本当にごめんなさい。
この件を反省し今後は、芸術祭期間中の八十郎の活動と豊島での滞在で得た知見を文章化することに専心したいと思います。どうか、よろしくお願い申し上げます。
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「セーター、ちくちく」の話がどうにも気になっていたら、なんと藤島八十郎をつくる藤浩志も「セーターはちくちくするから嫌い」と言い、あげくの果てには「僕、セーターなんて1枚ももっていないもん」と自慢しはじめた。
偶然かもしれない。でも藤崎さんと藤さんが、ちくちくするセーターを嫌いなのには何かあるような気がした。
藤さんの場合も、子どもが寒い格好をしていては可哀想と思った親が用意したセーターだったようだ。
藤崎家では羊毛から手づくりなので、これは今考えるととっても貴重なものだ。毛糸をつくる技術だって素人だったようだし、今のように洗練された着やすいセーターではなかったのも想像できる。その1枚のセーターは交換不可能で、盛清さんのためだけのものだった。
このエピソードに僕が惹かれるのは、親が子どもに手渡そうとしたものを、子どもが受け取れなかったということだ。親の価値観を共有できなかった欠落。そんな欠落は誰でもあるはずだと思う。先行世代の価値観を肯定できなかったということを、どう自分なりに引き受けて、新しい価値を創造し生きていくのか。それは芸術の分野が常に考え実践してきたことだ。
藤さんは「ちくちく」するセーターが嫌いで、「つるつる」した服ばかり着ている。でも、それが服ではなかったら「ちくちく」したものが好きだったかもしれない。豊島の石垣も僕には「ちくちく」しているように見える。この石垣がずっと残るのか、そうでないのかは僕にはわからない。
僕はセーターも着るし、つるつるした服も着る。でも、親の価値観を受け取れなかったことはいくらでもある。共有できたかもしれないのに共有できなかった価値観、自分が捨ててしまった何か、そんな欠落を大切な思い出として話す人が僕は好きなんだと思う。
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藤崎盛清さんの父、藤崎盛一さんは豊島で農民福音学校を運営していた。
農業の効率化が進み、単一作物の大量生産が奨励されていた時代に、牛や鶏などの家畜を飼い、様々な作物を育てて、土地の恵みをどのように利用するかを考え、実践していた。
学んでいた人たちの経緯も、ごく普通の高校生が進路として大学進学を選択するよう形とは違っていたようだ。家業が農家の若者が、これから自分たちがどのように生業と生活を改善していけるだろうかと模索するために農民福音学校の門を叩いていたようだ。共同生活をしながら、田畑で働き、講義を受講していたそのスタイルは、現代の視点から見ると、近代化によって分断された労働と学びをもう一度接続する試みといえるだろう。

農民福音学校の活動は興味深いが、ここでは長くは書かない。今回は別の話。
ともかく、そんな学校を運営していた藤崎盛一さんの息子、盛清さんに僕はめちゃくちゃお世話になった。藤崎盛清さんがいなかったら、藤島八十郎をつくる活動は全然別の形になっていたはずだ。
昔の藤崎家の暮らしぶりや農民福音学校のことを訊くのはたのしかった。盛清さんが幼いころ、農民福音学校では牛や鶏の他に羊も飼っていた。羊毛を刈り、脱脂し、毛糸を紡いで、手づくりのセーターをつくっていた。幼い盛清さんにも手づくりのセーターがあてがわれた。ところが、ごわごわしたセーターは着ると肌がちくちくして痛い。幼い盛清さんはセーターを着るのを嫌がり泣き騒ぎ、盛一さんに怒られた。もっとも盛清さん自身にこうしたできごとの記憶はない。それくらい幼いころのことだった。親や姉たちから聞いたそんなことがあったことを教えられたそうだ。それでもこの話には真実味がある。盛清さんは今でもセーターが嫌いで、セーターをもっていないのだ。
この「セーターちくちく」のエピソードは、僕の頭からずっと離れなかった。
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10月31日は瀬戸内国際芸術祭2010の最終日。八十郎の家も105日間の会期を終えることができました。
ツイッターにも書きましたが、最後のお客さんがとてもいい人たちでした。岡山在住で豊島に毎年夏のお祭りを手伝いに来ているそうです。豊島の外に住んでいて、八十郎の家よりも先に豊島を知って、何年も何度も豊島を訪れている豊島が好きな人が八十郎の家を気に入ってたのしんでくれたのは僕にとってもとてもうれしいことでした。
もちろん、それまで訪れてくれたすべてのお客さんに感謝です。混雑時には外でお待たせしてしまうことになったり、いろいろ至らぬ点もあったと思います。申し訳ございません。たくさんのお客さんにご来場いただき八十郎は幸せ者です。
そして、もうひとつ。芸術祭実行委員会の運営(いろいろ文句を言ってごめんなさい)、こえび隊のみなさんのご協力、島のみなさんの応援によって八十郎をつくる活動は成立しました。ありがとうございます。
藤さんはもちろんものすごく動いて豊島に来るたびに突貫工事をしていたけど、僕はほとんどなにもしてません。ごめんなさい。関わってくれたすべてのみなさん、本当にありがとうございました。

僕の力不足で、島の人や島に関心をもつ人と活動をつくるという当初のプロジェクトはほとんど実践できませんでしたが、なんだかわからないけどなにかできそうだという根拠のない手ごたえだけは感じることができました。
不思議なことに、そういう中途半端な状態にもかかわらずたくさんの来場者から賞賛の言葉をいただき、藤さんも僕もおどろいています。八十郎は何者なのか…、つくっている本人たちもますますわからなくなってきました。

会期中に僕の怠惰で報告できなかった「藤島八十郎をつくる」関連での出来事を今後このブログにアップしていきます。
トピックは…
雨漏り/掃除と分類/廃材/キッチンと調味料/テント/庭の草刈り/公堂の床磨き/遊具の錆落としとペンキ塗り/石垣/動物の群れ/子どもを待つライオンの像/豊島タワーと豊島スカイツリー/豊島の水と石/堀田さんの料理/幻の弓木パノラマ館/笹尾農園/ハーブ園/はるはるファーム/八十郎への手紙と手紙ワークショップ/立体農業研究助走/本のワークショップ/架空の人物/豊島タワーのスタンプ/いちご家の看板/壇山/廣田商店/ランプシェード/八十郎の庭/キケンギャラリー/島の子どもたち/豊島賛歌とアロハオエ/牛飼いだった人たち/etc.
こんな感じでしょうか。本当はもっともっと書かないといけないことがあるなぁ。そうそう、八十郎は絵本作家になりたいのでした。ここでのお話も絵本になるかも…。
いまだ何者かわからない八十郎の姿も、会期中の物語を書いていくうちにはっきりしてくるかもしれません。というわけで、結局またもやお待たせしてしまうわけです。ごめんなさい。

ちなみに藤島八十郎の家は11月19日から12月19日までの金・土・日曜日に公開するそうです。先日、会期中の状態からマイナーチェンジしました。宜しくお願いします。
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10月17日藤島八十郎の家で、「水のある場所」をキーワードに日本各地を訪ね歩き調査している社会学者の山田創平さんに、瀬戸内海と海洋文化について語ってもらいました。
山田さんの話はものすごくおもしろかったです。本当にすごい人でした。でも情報量が多すぎて僕には要約できません。ここでは、たくさんのトピックの中から特に気になったところを書いておきます。
・まず瀬戸内海についての基礎的な知識。平均水深約30メートルの非常に浅い海として知られている瀬戸内海ですが、最も深いところは454メートルもあるということ。そして21本の1級河川が注いでいます。こういった地理的な条件が瀬戸内海の複雑な潮の流れをつくりだし、豊かな生態系を築いてきたようです。
・そして海の人の暮らし。日本には海民と呼ばれた人がいました。海辺に暮らし、漁をして生計をたてていた人たちです。海民は殺生をするため、仏教的思想が広まってからの日本では賎民とされてきたそうです。
・海民は広範なネットワークをもっていました。その範囲は中国大陸や朝鮮半島、東南アジア、さらに南の方まで及んだと考えられています。
・もちろん瀬戸内海地域にも多くの海民が暮らしてきました。驚いたことに九州から瀬戸内海地域にかけて、海民には末子相続という制度があったそうです。近現代の日本の長子相続とは反対に末っ子が両親の財産を相続するというものです。長子相続は共同体を構成する人数を増やしたい場合に有効で、反対に末子相続は共同体の人数を減らしたい場合に機能するそうです。
・藤さんが山田さんを案内したスダジイの森についても話題に出ました。スダジイの森の奥にある権現神社。そのさらに背後にある大きな岩があります。この大きな岩は信仰の対象となる巨石でイワクラと呼ばれるものだろうということでした。
・海民は海だけを見ていたわけではありません。海民にとって島や山は自分たちの位置を測る重要なポイントでした。
・瀬戸内海の島は石が採れることで有名ですが、一方でそれらの石を大阪や京都に運ぶための船を操縦する技術にも長けていました。大阪で石を運んでいた三十石船を操縦していた人たちの多くは豊島や直島の出身だという文献資料もあるそうです。

他にもたくさんのお話をしていただきました。山田さんは文献を大量に深く読みつつ、実際に土地を歩き観察しています。フィールドワークと文献狩猟のバランスがとてもいい人でとても感心してしまいます。
僕が思ったのは、まず僕自身が日本のことをまったく知らないという情けない事実。一方で、山田さんが読んでいるような古い文献資料を僕は読むことさえできないだろうというのも想像できます。例えば200年前の文献を僕がどれだけ読むことができるかというと、かなり難しいでしょう。学がないといえばそれまでですが、現代に生きる我々と200年前の人たちに言語的なズレがあるのも確かなことです。200年前でも苦しいですが、6世紀とか7世紀の史料となれば外国語のようなものでしょう。日本の近代化の問題なのかもしれませんが、それはともかく日本で土地の歴史を学んでいく場合、山田さんのような人の翻訳的な仕事が重要になってくるのは間違いありません。ここで僕はあえて翻訳という言葉を使っています。ある言葉を受け取り、それを別の体系に置き換えていく。それは単純なシステム的作業のように思われるかもしれません。しかし、誰かが書いた意志を受け取り別の誰かに渡していくという作業には、創造の本質があるような気がします。創造という言葉はともかく、大量の情報を読み込み、比較検討し、関連づけていく「翻訳者」の視点が重要になってくるのは間違いないでしょう。
いずれにしても、山田さんにもっともっといろいろ教えてもらいたいと思いました。そういう機会を今後もつくっていきたいです。山田さん、どうもありがとうございました。
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9月28日に日比野克彦さんのプロジェクト瀬戸内海底探査船美術館「一昨日丸」のキックオフイベントが行われ、僕もヤジウマとして見てきた。
まず唐櫃公堂で二人の水中考古学者のお話。もちろん司会は日比野克彦さん。水中考古学とは考古学の一分野で、文字通り水中をフィールドとした考古学。吉崎伸さん(京都市埋蔵文化財研究所/水中考古学研究所)と野上建紀さん(有田町歴史民俗資料館/アジア水中考古学研究所)がそれぞれの研究活動を事例として、水中考古学という学問で行われている研究内容をわかりやすく説明してくれた。
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でも、僕にとっておもしろかったのは、アーティストの日比野さんがなぜ水中考古学に興味をもったのか。日比野さんの熱のある話し方がカッコイイ。夜空にうかぶ星は、とてつもなく遠くにあるけれど、どれだけ遠くても見えるから「ある」ことになっている。でも、水面の下は5メートルか10メートルの距離でも見えない。見えないから認識できない。何かあるかもしれないのに、ないことになってしまう。そして、水中にもぐり、まだ見てもいない何かを探す人たちがいる。水中考古学という学問に、絵を描くモチベーションと似た何かを日比野さんは感じたようだ。
僕は、洞窟探検に夢中になっている小山田徹さん思い出した。洞窟はある。でも、だれも入ったことがない洞窟は認識できない。どうなっているかもわからない。その洞窟に入り、少しずつ場所を把握して測量していく行為は、水中にもぐって歴史の記憶を探すのとどこか似ている。それは世界を認識する方法だ。そして人が絵を描くのは、世界の認識とその認識を誰かに受け渡していくことと関わってくる。
水中考古学の説明の後、豊島の漁師さんが海で引き上げたものを吉崎さんと野上さんが鑑定するという、鑑定団的企画が行われた。4点ある中で先生たちが興味を示したのは壷ではなく、陶製の地雷と高射砲の弾だった。戦争中に金属が不足したため陶器で地雷が作られたそうだ。爆発する陶器が作られていたのもおもしろいし、それが水中に沈んでいるのもスゴイ。

公堂のお話が終わってから昼食の時間をはさんで島キッチンでワークショップ。島キッチンの屋根を水面に見立てて、紙粘土で海の底に沈むものをイメージして紙粘土で作るというもの。一緒に行った橋村さんたちもたのしんでいた。

ワークショップの後は八十郎の家に移動してみんなでがやがやと話す予定だったのだが、ワークショップの終了が遅くなったので、そのままみんなで海辺にバーベキューをしに行くことに。ボルタンスキーの作品の近くの砂浜にみんなで移動。吉崎さんと野上さんはさっと地形を見渡すと、すたすたと歩き出してあっという間に海岸から陶器の破片を拾ってきた。16世紀(?)ぐらいのものだとか?先生たちは海に来ると、反射的に地形を観察して「船が遭難しやすい場所はここだ」と目星をつけるのが癖になっているようだ。うーむ、すごい。このあたり、アスリート的なアーティスト日比野さんも大いに興奮していて、なかなか刺激的な夜でだった。
途中から、和光大学の長尾洋子先生たちが合流。長尾先生は管啓次郎先生の友人。明治大学大学院で管先生と僕たち学生で実施した『WALKING 歩き、読み、考える展』の関連イベントで、和光大学のある鶴川駅から明大生田校舎まで一緒に歩いたのもなつかしい思い出。そういえば、小山田さんの洞窟測量ワークショップにも長尾先生は参加してくれて、とてもたのしんでいた。
しかも長尾先生と一緒に細川周平さんが来た!8月に八十郎の家で本のワークショップをしてくれた淺野卓夫さんがブラジルに3年ほど滞在していたのは以前にも書いたけど、細川さんは淺野さんの前にブラジルに滞在し、同じく日系人の生活や文化を調査研究した人。名著『シネマ屋ブラジルを行く-日系移民の郷愁とアイデンティティ』には、僕も大きな影響を受けている。キューバのフベントゥ島で管先生の本と細川さんの『シネマ屋-』がいつも頭の中に鳴り響いていた。
僕の中でいろんなものが結びついた一日だった。星、海の底、島、洞窟、地球の反対側の大陸で生きたニッポンの人の生活。結局、それは世界の断片でしかない。通常の意味でアートとよばれるものではない。でも、そのような世界の断片から想像する可能性を拡げることだけがアートの価値だといってもいい。日比野さんがしきりに言っていた、「人類ではじめて絵を描いた人がいるはずで…」という絵画の起源を想像することや、もっと個人的に今ここで絵を描きはじめる場合の動機とも重なってくる。人はなぜ絵を描くのか?そして、どこから来てどこへ行くのか?
でも、一番よかったのは海水で味つけをした肉を焼いている日比野さんの姿だったかも。みなさん、おつかれさまでした!
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