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八十郎の留守中に芸術祭が始まった。留守番していた僕は、たくさんの人が「いい眺めですね」とつぶやくのを聞いた。実際、台所からだけではなく部屋の窓からの眺望も素晴らしい。八十郎の家から下る坂道のはるか向こうに海が見える。他の島や岡山も見える瀬戸内海らしい景色。
だが、そんな眺めのいい家は島に他にもある。例えば、八十郎の家をつくるのを手伝ってくれた藤崎盛清さんの家も、海側を眺めると驚くほど見晴らしがいい。そして、そのすぐ近くにある盛清さんの父親、盛一さんが建てた家も。
藤崎盛一さんは農民福音学校というキリスト教の精神を基盤とした農村の生活技術を学ぶ学校を運営していた。はじめは東京の世田谷で開校していたのだが、田園地帯だったのが住宅が増え始め徐々に郊外化していくのを見て、適切な場所を探して豊島に移動してきた。自宅が学校だった。一緒に寝泊りし、生活がまるごと学習の場であり時間だったようだ。
藤崎盛一さんが豊島で自宅を建てるときに選んだ場所は、豊島に台風が通ると一番風が強く当たる場所だった。集落の中心地からも離れているし、決して便利な場所ではなかった。島の人はあんな場所になぜ、と思ったことだろう。だが、眺めは最高だ。藤崎さんによると盛一さんは「台風なんか来たとしても年に2、3回でしょう。それを我慢すればいいんだから、毎日いい眺めを見れたほうがいい」と言っていたそうだ。毎日の生活を重ねていく上で何に価値をおくかで人がわかる。藤崎盛一さんは、家からの眺めと同じくらい素敵な人だったに違いない。その価値観を藤崎盛清さんも受け継いでいる。
八十郎みたいなおっちょこちょいなやつ以外にも、眺めがいいという理由で場所を選ぶ人はいたわけだ。
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八十郎は眺めのいい場所が好きだった。だから、八十郎を訪ねるときも、どこに家があるのか知らなかったけれど、窓からの眺めが綺麗に違いないとは思っていた。
島だから海の近くを想像していた。ところが波止場で網を修繕していた初老の男に八十郎のことを訪ねると「ああ、あの変わった風来坊だな。あいつの家は岡。唐櫃の岡。でもあんまり家におらんらしいよ」と言っていた。丘の中腹に八十郎の家があるらしい。港からゆるやかな坂をそれなりの時間をかけて歩くと、田畑と家が並ぶ集落にたどり着く。その道端から見る海はすばらしい。視界が左右に広い。そうか、こんなところに家を見つけたのかと納得した。
路地をうろうろ訪ね歩くと、それほど時間もかからず集落の中心部からほんの少しだけ山側に八十郎の家を見つけることができた。八十郎の名前を呼んでも返事はない。不在のようだ。玄関を勝手に開けて中に入ると台所がある。靴を脱いで上がると天井が低いのに閉口した。だが、右側の流しのすぐ奥にある窓からは、遠くではあるがはっきりと美しい海が見えた。僕は納得した。天井が低いので、この景色を愉しむためにはずいぶんかがむ必要がある。だが、とにかく八十郎は眺めのいい場所に家を見つけたわけだ。
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島に空き家があった
主が不在の家に人は訪れない
人は家を訪ねるのではないから
人が家を訪れるのは、そこに住む人に会うためだから
その家に主がいなくなってから30年が経っていた
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人の不在が少しずつ家を家とは違うものに変えていこうとしていた
30年間の人の不在が家を少しずつ壊していった
川の流れが土を削り石を運ぶように、ゆっくりと
風が瓦を動かした
雨水が瓦と瓦の隙間から浸入し、床に落下した
水分をたくわえた畳は直線と緊張を失った
畳はそもそもの存在に、すなわちただの草に戻りたがっていた
垂直を保とうと役割を果たす柱と重厚な家具が、
畳に畳であるように促した
外壁の薄い波板は緩やかに酸化した
風が錆びた波板をところどころ吹き飛ばし、
土壁をむき出しにした
土壁も攻撃され、ただの土に帰ろうとしていた。
時間が家をそれぞれのマテリアルに帰そうとしていた

それでも家は誰かがそこに住んでいたことを記憶していた
埃がかぶった食器、黴臭い浴槽、ひしゃげた窓枠、たんすに詰め込まれた服
納屋には農具が積み重なっている
けれどもそこには誰も訪れなかった
なぜなら誰もいないのがわかっていたから

空き家に30年ぶりに人が住むことになった
家が30年ぶりに出会った人の名は藤島八十郎という変な名前だった
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父が1月初旬に他界した。
すでに昨夏から入院して、助かる見込みはないと知っていたから、それほど感傷的な気持ちにはならなかった。父親との関係は決して良好とはいえず、後悔することもあるが私事の領域を出ない話なのでここでは書かない。
しかし、瀬戸内国際芸術祭で僕が体験したことがなんだったのか、父親が死んだことによって、以前よりもはっきり見えてきたような気はする。結局、僕が瀬戸内国際芸術祭をたのしめなかったのは、僕の幼稚な振る舞いが自分で自分を動きにくくしたのだと思う。
藤さんには何度も「芸術祭のおかげで豊島に入れたのだから、芸術祭に感謝すべきだし芸術祭に問題があればそれを解決していく主体としてがんばるべきだ」と言われていた。それは、そのとおりでまったくの正論だ。でも、そうはできなかった。
瀬戸内国際芸術祭の始まる前に通っていた大学院でも僕は同じような振る舞いをしていた。僕の指導教官だった管啓次郎先生は本当に優れた人だったし、誰よりも僕のことを気にかけてくれていた。管先生のブログに次のような記述がある。
大学院に入ったのに「論文を書きたくない」というどうにも理解に苦しむことを平気で口にする者がいたが、それでは野球チームに入団しながら「試合に出たくない」というようなもの。まったくバカげている。

僕のことだ。たしかにバカげている。瀬戸内国際芸術祭でも同じように僕は「試合に出たくない」といってたわけだ。それは藤さんには理解に苦しむことだったと思う。
思い出すのは、藤さんが「芸術祭のことも、大学院のことも、お父さんのことも、全部同じ」と言ってたこと。僕がそれぞれに恩恵を受けているのに気がついてないし、感謝が足りないという指摘だった。その言葉を当時は肯定できなかったけれど、今は当たっていると思う。

今になって考えてみると実の父親のように僕のことを心配し気にかけてくれた人が何人かいて、管先生や藤さんもそうだった。年齢的には父親というよりも年の離れたお兄さんというくらいだが、ともかく彼らは僕のことをよく観察し、より可能性のある道を示そうとしてくれた。それは本当にありがたいことだと思う。
でも、結局のところ、僕の未来は僕が見つけないと意味がない。僕が管啓次郎や藤浩志を尊敬しおもしろいと思うのは、人生のところどころで、彼ら独特のユニークな選択をしているからだ。鮮烈にして特異な生き方だ。もちろんそういった人生の鮮やかなポイントだけではなく、その前後の独特な活動を継続する努力がすばらしいのだ。
だから、僕は管先生にどうしたら大学の先生になれるかということは教えてもらいたくなかった。だって、僕は大学の先生になりたいわけではないし、それは僕にとって継続できる道ではないから。藤さんにアート関係の仕事を薦めてもらいたくなかった。僕はそんな道を歩きたいと思っていない。
僕のことを気にかけてくれるのはわかっている。でも、率直に書くと、彼らに僕の人生の先回りをして僕が歩くべき道に標識を立ててもらいたいなんて思わない。僕が進むべき道をきれいに舗装してもらいたくない。僕が進む道は僕しか見つけられない。僕が見つけないと意味がない。
もちろん誰も歩いたことのない前人未到の地を行きたいなんて思っていない。僕がこれからすることのほとんどはすでに誰かがしているだろう。それで、いい。誰が歩いた道だろうとかまわない。だけど僕は僕の人生を全面的に新鮮に生きたい。
世界には無数の足跡がある。そのどれもが掛け値なしに尊い人の生きた証だ。なかでも管啓次郎や藤浩志の足跡は僕にとっては特別で、それがすなわち道標だった。
だから感謝が足りなかったのもそのとおりだ。管先生にも芸術祭にも藤さんにも。父親にももっと感謝すべきだった。

野球チームに入って「試合に出たくない」というのはたしかにバカげている。でも野球の試合は勝負である前にゲームだ。人が投げたボールをバットで打ち返すことに、すでに喜びがあるのだ。打撃の手ごたえに野球の秘密と動機がある。バットに当てられないようにボールを投げる者と、バットを構えボールを打撃し遠くに飛ばそうとする者。プロ野球選手になりたくて野球をやるやつもいるけど、ただおもしろいからやっているやつもいる。それでも真剣勝負の試合はできるし、いいゲームだって成立する。大リーガーになりたい人しか野球をしたらいけないとしたら、僕は野球をたのしめないだろう。
結局のところ、僕は大学の先生になるための論文は書きたくない。芸術祭のために島にいることもできない。島にいたいのは島と島の人が好きだからだし、それ以外の何の理由もない。

芸術祭には反対ではない。問題もあったけど、いいところもたくさんあった。だから芸術祭を賛成か反対かの二元論で語りたくない。「いろいろ問題はあったけどよかった」というような簡単な言葉で回収されたくもない。いいことも悪いことも、どんなできごともひとつひとつそれぞれが僕にとって大切な思い出だからだ。
北川フラムさんと話して不思議な感じがしたけど、僕は北川さんのことが好きになった。どうしてかはわからないけど。何か協力できることがあれば、したいと思った。
でも、それと僕の人生のこれからは別問題だし、僕が芸術祭との関係を前提に島に住むのは無理な話だ。もちろん北川さんも芸術祭もそんなことは要求してないんだけど。とにかく今後、芸術祭に何か僕が協力できることがあればしたいと思う。それはどうなるかわからないけど。ただ芸術祭を前提に島に住むことはできないというだけ。
僕は幼稚だと思う。だからといって無理して大人ぶってもしかたがない。もうアート関係の人で僕に関わろうという人はいないかもしれないけど、それはそれでいい。まったくいいことだ。

僕は父親のことを好きになれなかった。それは悲しいことだった。父親の価値観を受け入れることができなかった。父が僕に受け渡そうとした価値観を僕は拒否した。何も受けとらなかったわけではない。僕がほしいものだけを泥棒のように奪っていった。父親はただそれを見ていた。僕たちはあるときから親子ではなくなったようだった。友人でもないし他人でもない。なんだったのだろう。成立していた関係を僕が壊したのは確かなことだ。
父親が彼の人生で何をしたかったのか、僕には理解できなかった。僕が何をしたいのか父は理解できなかったし、そのことを悲しんでいたようだ。僕は父親に何かしてもらいたいなんて思っていなかった。ただ彼が生きたいように生きてほしかった。僕のために生きてほしくなかった。僕が父親のために生きることを拒否したからだ。
僕は管先生や藤さんのことが今でも好きだし、その理由は彼らがその人らしく生きているからだ。それが一番かっこいい。彼らの歩いている地点を歩いてみたいと思うことはある。たとえその場所にたどり着いたときには、彼らがはるか彼方に歩みを進んでいたとしても、それはそれでいい。

そんなことを考えていたら、藤さんが藤島八十郎の絵を描き始めたようだ。それは僕にとっては圧倒的にうれしいことだ。
僕もこれからどんどんテキストをアップしていく。さんざんお待たせしているので誰も信用しないだろうし、藤さんはテキストはもうあきらめているかもしれない。それは僕が悪いから仕方がない。書くということが僕にとって大切なのはわかっている。僕は試合に出たいのか、そうでないのかよくわからない。ただバットでボールを打つように書きたい。
というわけで「八十郎の絵本のためのテキスト」というカテゴリをつくって、これからはそっちを更新することに努力します。
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