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島に空き家があった
主が不在の家に人は訪れない
人は家を訪ねるのではないから
人が家を訪れるのは、そこに住む人に会うためだから
その家に主がいなくなってから30年が経っていた
30年の不在が_f0238058_9544950.jpg

人の不在が少しずつ家を家とは違うものに変えていこうとしていた
30年間の人の不在が家を少しずつ壊していった
川の流れが土を削り石を運ぶように、ゆっくりと
風が瓦を動かした
雨水が瓦と瓦の隙間から浸入し、床に落下した
水分をたくわえた畳は直線と緊張を失った
畳はそもそもの存在に、すなわちただの草に戻りたがっていた
垂直を保とうと役割を果たす柱と重厚な家具が、
畳に畳であるように促した
外壁の薄い波板は緩やかに酸化した
風が錆びた波板をところどころ吹き飛ばし、
土壁をむき出しにした
土壁も攻撃され、ただの土に帰ろうとしていた。
時間が家をそれぞれのマテリアルに帰そうとしていた

それでも家は誰かがそこに住んでいたことを記憶していた
埃がかぶった食器、黴臭い浴槽、ひしゃげた窓枠、たんすに詰め込まれた服
納屋には農具が積み重なっている
けれどもそこには誰も訪れなかった
なぜなら誰もいないのがわかっていたから

空き家に30年ぶりに人が住むことになった
家が30年ぶりに出会った人の名は藤島八十郎という変な名前だった
父が1月初旬に他界した。
すでに昨夏から入院して、助かる見込みはないと知っていたから、それほど感傷的な気持ちにはならなかった。父親との関係は決して良好とはいえず、後悔することもあるが私事の領域を出ない話なのでここでは書かない。
しかし、瀬戸内国際芸術祭で僕が体験したことがなんだったのか、父親が死んだことによって、以前よりもはっきり見えてきたような気はする。結局、僕が瀬戸内国際芸術祭をたのしめなかったのは、僕の幼稚な振る舞いが自分で自分を動きにくくしたのだと思う。
藤さんには何度も「芸術祭のおかげで豊島に入れたのだから、芸術祭に感謝すべきだし芸術祭に問題があればそれを解決していく主体としてがんばるべきだ」と言われていた。それは、そのとおりでまったくの正論だ。でも、そうはできなかった。
瀬戸内国際芸術祭の始まる前に通っていた大学院でも僕は同じような振る舞いをしていた。僕の指導教官だった管啓次郎先生は本当に優れた人だったし、誰よりも僕のことを気にかけてくれていた。管先生のブログに次のような記述がある。
大学院に入ったのに「論文を書きたくない」というどうにも理解に苦しむことを平気で口にする者がいたが、それでは野球チームに入団しながら「試合に出たくない」というようなもの。まったくバカげている。

僕のことだ。たしかにバカげている。瀬戸内国際芸術祭でも同じように僕は「試合に出たくない」といってたわけだ。それは藤さんには理解に苦しむことだったと思う。
思い出すのは、藤さんが「芸術祭のことも、大学院のことも、お父さんのことも、全部同じ」と言ってたこと。僕がそれぞれに恩恵を受けているのに気がついてないし、感謝が足りないという指摘だった。その言葉を当時は肯定できなかったけれど、今は当たっていると思う。

今になって考えてみると実の父親のように僕のことを心配し気にかけてくれた人が何人かいて、管先生や藤さんもそうだった。年齢的には父親というよりも年の離れたお兄さんというくらいだが、ともかく彼らは僕のことをよく観察し、より可能性のある道を示そうとしてくれた。それは本当にありがたいことだと思う。
でも、結局のところ、僕の未来は僕が見つけないと意味がない。僕が管啓次郎や藤浩志を尊敬しおもしろいと思うのは、人生のところどころで、彼ら独特のユニークな選択をしているからだ。鮮烈にして特異な生き方だ。もちろんそういった人生の鮮やかなポイントだけではなく、その前後の独特な活動を継続する努力がすばらしいのだ。
だから、僕は管先生にどうしたら大学の先生になれるかということは教えてもらいたくなかった。だって、僕は大学の先生になりたいわけではないし、それは僕にとって継続できる道ではないから。藤さんにアート関係の仕事を薦めてもらいたくなかった。僕はそんな道を歩きたいと思っていない。
僕のことを気にかけてくれるのはわかっている。でも、率直に書くと、彼らに僕の人生の先回りをして僕が歩くべき道に標識を立ててもらいたいなんて思わない。僕が進むべき道をきれいに舗装してもらいたくない。僕が進む道は僕しか見つけられない。僕が見つけないと意味がない。
もちろん誰も歩いたことのない前人未到の地を行きたいなんて思っていない。僕がこれからすることのほとんどはすでに誰かがしているだろう。それで、いい。誰が歩いた道だろうとかまわない。だけど僕は僕の人生を全面的に新鮮に生きたい。
世界には無数の足跡がある。そのどれもが掛け値なしに尊い人の生きた証だ。なかでも管啓次郎や藤浩志の足跡は僕にとっては特別で、それがすなわち道標だった。
だから感謝が足りなかったのもそのとおりだ。管先生にも芸術祭にも藤さんにも。父親にももっと感謝すべきだった。

野球チームに入って「試合に出たくない」というのはたしかにバカげている。でも野球の試合は勝負である前にゲームだ。人が投げたボールをバットで打ち返すことに、すでに喜びがあるのだ。打撃の手ごたえに野球の秘密と動機がある。バットに当てられないようにボールを投げる者と、バットを構えボールを打撃し遠くに飛ばそうとする者。プロ野球選手になりたくて野球をやるやつもいるけど、ただおもしろいからやっているやつもいる。それでも真剣勝負の試合はできるし、いいゲームだって成立する。大リーガーになりたい人しか野球をしたらいけないとしたら、僕は野球をたのしめないだろう。
結局のところ、僕は大学の先生になるための論文は書きたくない。芸術祭のために島にいることもできない。島にいたいのは島と島の人が好きだからだし、それ以外の何の理由もない。

芸術祭には反対ではない。問題もあったけど、いいところもたくさんあった。だから芸術祭を賛成か反対かの二元論で語りたくない。「いろいろ問題はあったけどよかった」というような簡単な言葉で回収されたくもない。いいことも悪いことも、どんなできごともひとつひとつそれぞれが僕にとって大切な思い出だからだ。
北川フラムさんと話して不思議な感じがしたけど、僕は北川さんのことが好きになった。どうしてかはわからないけど。何か協力できることがあれば、したいと思った。
でも、それと僕の人生のこれからは別問題だし、僕が芸術祭との関係を前提に島に住むのは無理な話だ。もちろん北川さんも芸術祭もそんなことは要求してないんだけど。とにかく今後、芸術祭に何か僕が協力できることがあればしたいと思う。それはどうなるかわからないけど。ただ芸術祭を前提に島に住むことはできないというだけ。
僕は幼稚だと思う。だからといって無理して大人ぶってもしかたがない。もうアート関係の人で僕に関わろうという人はいないかもしれないけど、それはそれでいい。まったくいいことだ。

僕は父親のことを好きになれなかった。それは悲しいことだった。父親の価値観を受け入れることができなかった。父が僕に受け渡そうとした価値観を僕は拒否した。何も受けとらなかったわけではない。僕がほしいものだけを泥棒のように奪っていった。父親はただそれを見ていた。僕たちはあるときから親子ではなくなったようだった。友人でもないし他人でもない。なんだったのだろう。成立していた関係を僕が壊したのは確かなことだ。
父親が彼の人生で何をしたかったのか、僕には理解できなかった。僕が何をしたいのか父は理解できなかったし、そのことを悲しんでいたようだ。僕は父親に何かしてもらいたいなんて思っていなかった。ただ彼が生きたいように生きてほしかった。僕のために生きてほしくなかった。僕が父親のために生きることを拒否したからだ。
僕は管先生や藤さんのことが今でも好きだし、その理由は彼らがその人らしく生きているからだ。それが一番かっこいい。彼らの歩いている地点を歩いてみたいと思うことはある。たとえその場所にたどり着いたときには、彼らがはるか彼方に歩みを進んでいたとしても、それはそれでいい。

そんなことを考えていたら、藤さんが藤島八十郎の絵を描き始めたようだ。それは僕にとっては圧倒的にうれしいことだ。
僕もこれからどんどんテキストをアップしていく。さんざんお待たせしているので誰も信用しないだろうし、藤さんはテキストはもうあきらめているかもしれない。それは僕が悪いから仕方がない。書くということが僕にとって大切なのはわかっている。僕は試合に出たいのか、そうでないのかよくわからない。ただバットでボールを打つように書きたい。
というわけで「八十郎の絵本のためのテキスト」というカテゴリをつくって、これからはそっちを更新することに努力します。
前回のブログを書いてから、たくさんの人たちにご心配をいただいております。
ひとまず藤島八十郎の家は撤去ということになりました。ご報告が遅れて申し訳ございません。
藤島八十郎をつくる活動に参加してくれた人たち、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。

北川フラム氏には、12月18日に今後のことを相談させていただきました。こちらからプランを出せば検討してくれるようにご配慮もいただきました。しかし、藤さんと相談して今回はプラン提出を見送り、八十郎の家は撤去するという選択をしました。一度リセットして、もっといい形で八十郎をつくる活動を展開する機会がきっとあると思うので、それまで様子をみたいと思います。
そんなわけで、12月下旬に八十郎の家をかたづけました。
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(写真はすべて農園主さん撮影です)
ちょっと寂しいですが、藤島八十郎の活動は今後もなんらかの形で継続できるような気がしています。それに絵本のためのエピソードもまだだし…。これは僕がのろのろしていただけなので、1月と2月で進めていきます。ネタはどんどんたまっているので大丈夫です。
八十郎の活動に参加、ご協力、応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。
2010年もあとわずかですが、よいお年をお迎えください!
ことの顛末は藤浩志さんのブログにあるとおりですが、あらためて説明しておくと、管巻三十郎(宇野澤)すなわち僕の瀬戸内国際芸術祭実行委員会に対する態度があまりにも悪いということで、北川フラムさんから藤さんがお叱りを受けました。
これは実際にその通りで、僕も反省するところが多いにあります。今さらですが、北川さんにお会いしてお詫びを申し上げたいと思います。
実行委員会のみなさんを不愉快な気持ちにさせてしまったことも想像に難くないです。ご迷惑をおかけしました。

この件は100%僕に非があります。僕が参加しない形で藤島八十郎をつくる活動が継続していけたら、それが望ましいことだと思います。もちろん僕が意見をどうこう言える立場ではありません。北川さんをはじめ実行委員会の判断がまず大事です。芸術祭のおかげで八十郎の活動も成立していたのに、その芸術祭に対して僕の態度はあまりに不誠実でした。

とくに芸術祭について反対の立場をとるつもりもないのですが、そう誤解されてしまった原因は僕の発言を含めた振る舞いにあるのですから自業自得です。
どんな派閥にも属せないし、属そうとしないのが僕です。芸術祭に参加している以上、芸術祭を推進していく立場なのですが、そこにいることは僕個人にとっては不自然なことで、まったく息苦しい経験でした。要するに社会的なルールを守れていないのだから、どれだけ非難されてもしかたがありません。

しつこいし、言い訳がましいですが、芸術祭反対派ではありません。
4月から豊島で生活し、たくさんの島の人にお世話になりました。島には芸術祭を応援してくれている人もいるし、無関心な人もいるし、あまりよろしく思っていない人もいます。豊島に訪れたばかりのころ、芸術祭への関心がどうあるかということ以上に、典型的な「島の人」というイメージを超えた多様なキャラクターが豊島にいることに僕は驚きました。芸術祭についてどんな意見をもっている人であろうと、その人が島でどのように生きてきたかを学んでいきたいというのが豊島と関わる僕のモチベーションになっていきました。
豊島の人の多くがかつては牛を飼っていました。ミルクの島と呼ばれていたこともあったそうですが、畜産業の構造の変化によって、酪農を豊島で行っても収益が上がらなくなり、今ではほとんどの家が牛を手放しています。
また豊島は石も有名で、かつては石工もたくさんいたようです。これも中国産の安い石が輸入されるようになって、石工さんも徐々に減少しているようです。
豊島で今生活している人たちは多くが、そうした社会構造の変化が理由で職業を変えた経験をしています。都市部に移住すれば、仕事も見つかりやすいはずですが、島に生きることを選択し、そのための生業をつくってきた人たちです。過去の仕事をあきらめ、彼らにとっての新しい生き方に身を投じた人たちです。挫折を心の底に沈めたまま、希望をもち、前向きに生きている島の人たちが僕は好きです。あきらめと希望、期待と不安。僕が豊島で行いたいのは、常に拮抗するふたつの気持ちを抱えた島の人の人生を肯定することです。そのことにはっきりと気がついたのは、つい最近のことで、芸術祭の会期が終了してからですから、まったく我ながら間抜けです(蒙を啓いてくれたのは友人のアーティストでした。ありがとう、ありがとう)。

だから芸術祭については反対ではないのですが、島の人を芸術祭に協力的な人とそうでない人に分けて見るような状況が僕には耐えられなかったのも事実です。誤解のないようにいっておくと、その状況とは、実行委員会が島の人をどう見ていたかということだけではなく、芸術祭にどういう態度をとっているかを島の人同士でもお互い観察しあう程、芸術祭が島をおおっていたということです。
しかし、だからといって僕の態度が正しかったと主張したいわけではありません。幼稚な振る舞いをして関係者のみなさんにご迷惑をおかけしたことを、申し訳なく思っています。

僕としても自分が参加している藤島八十郎をつくる活動の部分で芸術祭に貢献していきたいとは思っていました。結果的には、何かある度に幼児のごとく振る舞い、芸術祭に迷惑をかけてしまっていて、バカというしかありません。

北川フラムさんをはじめとする実行委員会のみなさまにはご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません。

藤浩志さんの期待も裏切るようなことになってしまったのは誠に残念です。我ながら情けないです。
芸術祭というフレームを前提にするのであれば、僕よりも適切な人材はたくさんいるはずなので、そういう人が豊島で藤さんと活動してくれることを願っています。

「藤島八十郎をつくる」活動にご協力いただいたみなさん、応援してくれたみなさん、本当にごめんなさい。
この件を反省し今後は、芸術祭期間中の八十郎の活動と豊島での滞在で得た知見を文章化することに専心したいと思います。どうか、よろしくお願い申し上げます。
「セーター、ちくちく」の話がどうにも気になっていたら、なんと藤島八十郎をつくる藤浩志も「セーターはちくちくするから嫌い」と言い、あげくの果てには「僕、セーターなんて1枚ももっていないもん」と自慢しはじめた。
偶然かもしれない。でも藤崎さんと藤さんが、ちくちくするセーターを嫌いなのには何かあるような気がした。
藤さんの場合も、子どもが寒い格好をしていては可哀想と思った親が用意したセーターだったようだ。
藤崎家では羊毛から手づくりなので、これは今考えるととっても貴重なものだ。毛糸をつくる技術だって素人だったようだし、今のように洗練された着やすいセーターではなかったのも想像できる。その1枚のセーターは交換不可能で、盛清さんのためだけのものだった。
このエピソードに僕が惹かれるのは、親が子どもに手渡そうとしたものを、子どもが受け取れなかったということだ。親の価値観を共有できなかった欠落。そんな欠落は誰でもあるはずだと思う。先行世代の価値観を肯定できなかったということを、どう自分なりに引き受けて、新しい価値を創造し生きていくのか。それは芸術の分野が常に考え実践してきたことだ。
藤さんは「ちくちく」するセーターが嫌いで、「つるつる」した服ばかり着ている。でも、それが服ではなかったら「ちくちく」したものが好きだったかもしれない。豊島の石垣も僕には「ちくちく」しているように見える。この石垣がずっと残るのか、そうでないのかは僕にはわからない。
僕はセーターも着るし、つるつるした服も着る。でも、親の価値観を受け取れなかったことはいくらでもある。共有できたかもしれないのに共有できなかった価値観、自分が捨ててしまった何か、そんな欠落を大切な思い出として話す人が僕は好きなんだと思う。